蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№273 利く、効く

今朝のサンライズ出雲で帰宅。
やはり睡眠の質は、いつもと同じようにはいかない。
夢を見ながらも、どこかの駅で停車したことに気付いている自分がいる。

元来、私はちょこまかとした移動が嫌いである。
車なしにはできない普段の生活のなかでも、大きな円を描くように移動しつつ、要を済ませたいと思っている。「一筆書き」のように、同じところを行き来せずに前に進み、元の場所に帰りたい。

という訳で、いったん北上して車を停めて、米子空港から東に飛んで、羽田からまた都心に北上する、っていうのがなんだかしっくりこないんだよな。なので、寝台列車での移動に疲れるか飽きるまで、サンライズ出雲にお世話になることになると思う。
これからの季節は雪の心配もあるので、例え立往生しても車内で待ちさえすればいいJRにお世話になるのが一番かも、とも考えている。

さて、昨日は、日体大にて「天真体道」なるものの体験をさせて頂いた。
御年83歳になられるという青木先生の、その場を掌中に収められる様とその集中力に感服させられた。ただ年を重ねているだけ、ただ一生懸命勉強してるだけでは到達し得ない「何か」。

先生のように海外で多くの国を巡ったりすることを「凄いな、羨ましいな」と思うこととは違う、自分なりの道の歩み方を考え抜いていきたい。
懇親会では、茶道、剣道についても先生とお話させて頂けたことが有難かった。
茶道は趣味事と思ってきたのだが、今後は「たかが茶飲み事」を、どんな風に使っていこうかという気持ちが湧いて収まらない。

茶でも水でもビールでも、何かを飲まない人はいない。
茶道が「高級な抹茶を飲む」教えではないという視点、ごく当たり前のことに道を見出す、という視点から考えていくことで、実践というものの枠組みが変えられるかもしれない。

わざわざ勤修(アヴィヤーサ・修行)するのではない、当たり前の実践。
至極あたり前のことから見出される悟り。
例え口にしたものが不味かったとしても「結構です」と言える、自分自身の物の感じ方。

青木先生も。様々な武道を含んで超えられた。とても自由だと思った。そして単純。純粋。「如何に利くか」、それだけを考えてきた先生だからそこに辿り着いたのではないのかな。

ヨーガや茶道や筝曲や子育てを繋ぐ、一本の道は何か。
私なら「如何に効くか」というのがそれかな。
生きる中で、人は必ず病む瞬間がある。それに「効く」何かを提供したいのかも。

今晩から始まるゼミナールでも、そのことを掘り下げていきたい。

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日体大のカツカレーだ!