蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№449 だれかのために叫ぶ

もう何年も前のことになるが、インテグラル理論の師匠・規夫先生に、大崎のスターバックスで頂いた言葉が私の臓腑に突き刺さり、ずっとその言葉を大事にしている。

「自分がこの世に生を受けて得られた知識や経験を、誰かに向かって伝えねばならない。」そういう義務を私たちは負っている。

世界のどこかにいる会うこともない誰かが、私の言葉を見聞きして救われることがあるかもしれない。私は、その決して会うことができない誰かに対する責任がある(もちろんあなたにもある。)だから黙っていてはいけない。

その言葉を頂いてから、実際に発信するようになるまでにはかなりのブランクがあったし、最後に強く背を押してくださった方の存在がなければ、未だにうじうじして行動していなかったかもしれない。

私はヨーガ教師という仕事をしているので、とにもかくにも誰かになにかを話伝えるということはできる。ヨーガの先生は体操の先生だと人は思っているので、実際のクラスやセッションでほとんど体操をお教えしていないことを知った方は魂消るかもしれない。

でもヨーガ教師というのは、ヨーガの智慧を伝授するのが仕事なのであって体操の先生ではないのである(いつもうるさく言っているとおり)。そもそもヨーガの目的というものが究極的には解脱・悟りであって、その言葉の意味するところから紐解いていかねばならないのだ。

解脱という日本語が、何というか、カタい。
なんともつまらなさそうにも、同時につらそうにも思える。しんどい修行の匂いがして、「ああ、それはものすごく気持ちよさそうだからなんとしても到達してみたい!」と思えない気がする。私は元来修行好きなので、苦行の先の快感みたいなものを解脱に対して感じてきたのだが、最近は心持ちが変化している。Mokshaというサンスクリット語の方がいい。

モクシャ、という音は蓮の花が美しく開いていく様を想像させる。ポンと優しく花が開く音が聴こえるよう。蓮の花はインドの国花であり、悟りの象徴である。ちなみにうちの娘の名前にもこっそり、この蓮の“悟り”としての意味が忍ばせてある。

 

ではMokshaの意味するところは何だろう? 悟りってなんだろう。
悟りという言葉は、日常でもなんとなく使っている。プチ悟りがありました、とか言っているが、それがほんとうに悟りかどうかは不明である。まあそれはさておき。
この言葉の本来意味するところは「隷属からの解放」である。

隷属と、そしてそこから生じる捉われてもがく感覚や不幸の感覚はなぜ、どこから生まれているのか考えたことがあるだろうか。

すべて自分のなかにある。
だからこそ「それはほんとうに従うべきルールなのか、そこに悩む必要があったのか」について考え続けて、ひとつずつ軛から(自分自身を)解放していかねばならない。
この作業を瞑想という。

ウィルバーはこの瞑想のことを「黙想」と表現している。よく言われる瞑想とは「禅那 Dhyana」すなわち禅のことで、深く集中している状態を指す(マインドフルネスとはこの禅那の前段階 ダーラナ Dharana と思われる。一定時間集中して思念から離れる努力のこと)。
ヨーガを行じる者が瞑想というとき、ひとつのテーマに集中し自我の過去の在りようを調べ尽くし意識のひかりをあたえることを意味する。

「真我こそが悟られるべきであり、耳にされる(聴聞)べきであり、熟考され、深く瞑想されねばならぬのである。真我をみとめ、耳にし、熟考の対象にするときに、一切は悟られ意識化されるのである」(ブリハッド・アーラニァカ・ウパニシャッド第4篇5章6節)

*日本ヨーガニケタン公式サイトより https://www.yoganiketan.jp/yogatherapy.html 

 

ここに示されているのは「解脱の境地に達する為の修行法」に対する解答で、ここに瞑想の具体的手法・三段階が開示されている。すなわち、
1.聴聞/シュラバナ Sharavana 
2.熟考/マナナ Manana 
3.深い瞑想/ニディディヤーサナ Nididhyasana  である。

本当の自分(真我)に関する知識に触れ ~1.聴聞
その知識を持ちながら、真我の視点で過去の自分のふるまいを検証し ~2.熟考
そこにある囚われの原因を悟る ~3.深い悟り

その作業の繰り返しが結果的に私たちを解放の境地に導くのであって、ぼんやり座っているだけではどこにも行けはしないのだ。

過去のネタは誰しも満載である。このネタを活用しない方はないだろう。
人生も変わるし(これホント)、飲み会で披露する話題も増える。いいことばかり。
そしてここで得た気付きやそのエッセンスを、世界のどこかにいる誰かに向かって叫びたい。叫ばなくては、あなたも私も。

 

55節:瞑想の高い次元に達した心は、あたかも風の無いところに置かれたろうそくの炎のごとくに安定する。 (シャンカラ大師「パンチャダシ」 第1章)