蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№216 マントラ効果についての考察

マントラ真言)の効果について、その音の持つヴァイブレーションが大事なのであって、意味は特にないとか、知らなくてもいいいとするような説があるが、師匠がそれを痛烈に批判しておられた。

「九官鳥に教えれば何万回も唱えるが、人になったりしないだろ」とのお言葉。

人でなければ悟ることも出来ないので、そもそも九官鳥であるということが悟りを求めるという観点から見るとガッカリということなのだろうが、訳あって今生九官鳥であるのだから、ちょっと可哀そうな言い様である。

うーんでも… 声明とか讃美歌など、聴くだけで清冽な気を受けることができる。
認知症の家族の悪態を聞き続けた人は、消耗して目つきが変わってしまう。
言葉というものの持つエネルギーの持つ力が今よりもっと説得力のある説明をしてくれるようになったら、お師匠様も違う見解を持たれるだろうか。

前職を退職した後に、数日間の瞑想セミナーを受講するため上京した。
そこではマントラを「授け」られた。これを繰り返し唱えて瞑想するようにと。
今になって思うと、世界的に有名なインド系アメリカ人の、スピリチュアルな金儲けに引っかかっただけのことだったのかもしれないが、瞑想の習慣化には一役買ってくれた。

そこで「授かった」マントラは、「意味のない音」だとの説明を受けた。それを繰り返すって、今思うとただの集中(ダーラナ)で、ものすごく初期の段階だとわかる。
瞑想のその先を教えるのはとても難しいことなので、それもしょうがないことかなとは思うが。

習慣化のためのサポートグループでは、瞑想を行うことによって「空いている駐車場に運良く出会う」人が多いということを知った。
しかし中にはまともな人がいて、「僕は駐車場を見つけるために瞑想をしているんじゃないのに」とのコメントをされていた。全くその通り。
何か、もっといいものをゲットするために瞑想はあるんじゃない。もっと仕事ができるために、睡眠時間を削って働けるようになるためにするのでもない。
今の自分(のものの見方)をぶっ壊して、再構築するためにある。

とはいえ、駐車場が空くのは事実なのだった。
ここは田舎なので、出かけた先で駐車場が空いていないとしょんぼりする羽目になるのだが、目の前で車が出ていってスコンと停められることがほとんどなのだ。
家族全員に認知されている再現性のある事象である。(修行に縁のない主人は、逆の目に遭っているらしい)

さて、後年、ご縁あってヒマラヤの導師から瑜伽名(聖名)を拝受したが、その時には意味のあるマントラを「贈られた」。
直訳すると「絶対者ブラフマンに礼拝します」。
その心は、非二元の境地に至るための修行を支えてください、というものかと思う。非二元なので修行も努力も本来必要は無いのだが、それはまあさておき。

ということで、マントラの意味を絶対に知っておくべきか否かということについては、現時点では中立の立場を維持しておきたいと思う。om。