蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№169 この世で経験することは

今日は本当に暑かった…
こんなに暑いと塩を振った西瓜が食べたくなる。なのに9月のこんな時期では、さすがの「西瓜の名産地」鳥取県にも西瓜は売っていない。

ところで、子供たちが保育園時代に歌っていた「すいかの名産地」。
今の今まで鳥取県の歌だと思っていた…。アメリカ民謡だなんて。
アメリカにスイカあるんですね…。メロンっぽいですけどね。
https://www.youtube.com/watch?v=p3MmBPB1wI4

ちなみに、名曲「ふるさと」の作詞・作曲者は鳥取の方ですよ。これをお読みくださっている鳥取県民以外の方、ご存知でしたか?

さて、2日連続で「聖典ライブ」にてお勉強。
昨晩は、師匠の師、ヨーゲシバラナンダお大師様による「マハラジ講話」。
もうお亡くなりになっておられる大師様の貴重な講話を、師の解説と、50分近い瞑想で体得しようと努力する。

ヨーガの世界観はとてもペシミスティックだ。
この救いがたい世界に、二度と生まれ出てこないことを願って修行する。

この世で「生きている」と思っていることが迷妄。
迷妄の世界で、多少はマシな夢を願ってみてもどうしようもないので、永遠の苦しみに終止符を打つために輪廻からの抜け出ることが望みとなる。

この世で体験することはすべて不快な事である、とヨーガ・スートラは言う。
快と感じることは誤った認識、実際には幸福な事物なんてないと。

Q:では、この苦悩に満ちた世界に生まれて来ちゃった私たちは、何を頼りに生きていけばいい訳ですか? 
A:やさぐれることなく、自らの内に住まいする「神我(真我)」に、常に思いを致して生きましょう。

しかし、「やはりこの世のすべての事物は不快なんだな」と認識するためには、「識別知」という智慧が必要。この智慧を得るために修行をするのですが…

やはり「知る」ということは怖ろしいことなんですね。
でも洗濯機のなかの洗濯物のように、事象に巻き込まれ、絡みつかれて生きるより、既にこの生を一度生き終えたようなつもりで、客観視しながらこの世を生きられたら…という強い欲望を持っている。これもまた迷妄かもしれないが。

 

「事象の転変と不安と残存印象とからは、苦悩が生じ、同じく、三種の徳性と心理作用双方の働きが相反するゆえに、識別の智慧を得た者にとっては、この世のすべては苦しみなのである」
(ヨーガ・スートラ
第2章15節)