蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

自分が感じたことを表現するということ

無事亥年を迎えた昨日、鳥取県西伯郡南部町の小学校へボランティアとして出掛け、尺八の先生方とご一緒に、邦楽授業のゲスト講師としてお手伝いをさせて頂きました。10年ほど前、姉弟子からお声掛け頂き、師匠の許しを得てお手伝いに上がらせて頂いています。筝曲を学ぶ者として非常に貴重な機会を与えて頂き、感謝をしています。

小・中学校の音楽の教科書に邦楽についての記載がなされるようになって、実際に楽器に触れて体験をする学校も多くなったのでしょうが、生演奏を間近で見られる機会を持つ児童・生徒は少ないと思います。

お正月によく聴くお箏の名曲、宮城道雄先生作曲の「春の海」。
聴いたことのない人は、ほとんどおられないのではないでしょうか。
多くの人は何気なく聴いておられることでしょうが、新年の書店などでBGMに流れていると私など思わず聴き入ってしまいます。
度々生演奏を拝聴させて頂く度に、だんだんと「聴く耳」が育ってきました。
宮城物は上手い下手が出ます。怖いくらい出ます。
小さな音量で倍音を聴かせるテクニックが含まれているのですが、あの部分は相当にドキドキします。
ご宗家・2代目菊井松音の演奏では、ホールの中にその小さな音が遠音となって響き渡りました。あの音が、今でも忘れられません。

出張授業の時の「春の海」解説は私がさせて頂くのですが、自分自身はこの曲を稽古するお許しもまだ頂けない身です。
こどもたちに必ずお話するのは、「宮城先生は目が見えなかったのですよ」ということ。

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それなのにあのリアルな表現。
「春の海」は、広島県福山市鞆の浦の情景を映したものと言われますね。
瀬戸内の穏やかな海。波の音、穏やかな光、風が肌に触れる感覚。そして鳥の声。
私たちが感動を言葉で表現するように、宮城先生は筝曲で表現されたのですね。
「その方が美しいかどうか、声で分かる」と、宮城先生は仰られたそうです。

筝曲等の作曲者のお名前に「検校(けんぎょう)」とついていることがありますが、これは「中世・近世における盲人の役職の最高位」だそうです。
筝曲家・福田京子さんの記事から参照させて頂きました。

筝曲を志すものにとって「目明き」は障害なんだと思わされます。
楽譜に頼ってしまうし、目が見えるせいで他の感覚は鈍いし…
「視力の無い」という才能と思えてならないのです。

ヨーガを行じる時には目を閉じます。
必ず閉じます。
目が見える私たちは情報収集の80%を目に頼っていると聞きますが、目を開けた状態で自分の内面の感覚を感じることはとても困難です。
分かっているようで知らない「自分」の内面を観察することを、ヨーガの体操では大事にしています。
目を瞑って体操して、緊張と弛緩を意識化して… 
とても気持ちがいい。
で、ここで終わってしまう人がとても多いですが、これもヨーガとしては残念。
すべてが終わった後で、自分の身体感覚を言葉で表現すること、これも大事。
「気持ちよかったです!」ではなく、「私にとって気持ちいいとはどういうことなのか」を自分だけの言葉で表現する。
せめてここまでやって欲しいのですが、難しいと思われる方も多いですね。
なんでも練習ですので、諦めずに自分を語ることを続けて欲しいと思います。

この世で生きるにあたって、「自分」というものを通して世界とも人とも対峙するのですから、「自分」をよく知り、表現することを決して諦めないで欲しいと思います。
きっと素晴らしいものが見いだせると思いますよ。