蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№168 応諾 「わかりました」と言い続ける生き方

山に芝刈りに出かけていた7-8月、時間が合わないため「聖典学習」をお休みさせて頂いていた。

ちなみのこの聖典学習は、「ラージャ・ヨーガ 8支則」の中の「勧戒 ニヤマ」の中のスヴァディヤーヤ(Svadhyaya)にあたる。だから、どんな状況でもサボっちゃダメ…。一体私の頭のなかは、どれだけおかしくなっていたんだろうねえ。

インテグラル理論」のゼミナールも、スヴァディヤーヤのうちと言えるかもしれないので、良しとするか。

そして9月からは心を改めて、聖典学習に取り組んでいる。
本日は「逐次ヨーガ・スートラ 第1章27節」である。

逐次ってなんのことやろうか…と思っていたが、サンスクリット語の文言を読誦して学ぶという形式で、これは伝統的な学びの形なんだと思う。アーユルヴェーダの講座でも、サンスクリット語の、詩のような一連の言葉を歌うようにして覚えたものだ。

さて、「ヨーガ・スートラ」はラージャ・ヨーガの教典で、ヨーガを行じる私たちが最も大事にする書物。これに基づいて指導を行っている、と言っても過言ではない。

「ヨーガ・スートラ」の日本語訳は書籍でも入手できるが、これってヨーガやってない人にはまったく意味が分からないと思う…。
私たちは、師匠が訳した資料を使って学び、第1章の冊子など、書き込みすぎて意味不明の状態と化している。

『これからヨーガの話をしよう』
との言葉で始まる「ヨーガ・スートラ」は、人から人へと糸のように途切れることなく伝えられてきた。スートラとは正に経糸のことを示す。

『ヨーガとは、心の働きを止滅することである』

と、スートラにはある。
はっきり書いてある。
なのに!ヨーガをストレッチと思っている輩がいるなんて!
と思うのは、スートラを読み、そこに生きることを許された私の、傲慢な心の叫びだ。

ポーズをすべてとするyogaに出会った人には、それはそれで訳がある。
そのyogaに出会わなかった私にも、訳がある。

この世で生きていて、目の前に生じる事象に「NO」を言うことを、ヨーガは許していない。

ヨーガが最も大事とするマントラは”AUM”で、日本には「阿吽」として伝わっているが、この言葉の意味するところは「応諾」である。

『何が来ても「わかりました!」と言え!』と、ヨーガは教えているのだ。

「えー、なんで自分がこんな目に」とか、「え!そんなの嫌だ!」と言わずに、打撃を受けて打ちのめされながらも、まず「はい!わかりました!」と承っておいてから、「どうしよう…」と考えろということ。

嫌々応じた場合と、素直に応じた場合とでは、その後のカルマに大きな差が出るそうだ。

「どうしよう…」と考えるも、どうしていいのかわからない状況に陥ってしまったりすることも多々あるのだが、それでも頭で賢らに考えて、「いや~、やっぱりそんなん無理だから、やめときますわ」というスマートな生き方をしていたら、今の自分は絶対いない。
なので私はこれからも、打撃を受けつつ「わかりました…」と言い続ける人生を生きたいと思う。間違っていると言われることがあっても、必死に生きたいと思う。

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ヨーガが最も大事とするマントラ


ヨーガ・スートラ第1章27節
tasya vācakaḥ praṇavaḥ ||27||
His designator is ‘Om’. vācakaḥ: designator; indicator
• tasya = of that
• vachakah = designator, signifier, indicator, term
• pranavah = the mantra AUM or OM

Ⅰ-27 神様を指し示すものが、聖音アウン(プラナヴァ)である。