蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№343 ヨーガの対話技法・ダルシャナ

先日、とある打ち合わせで、「ヨーガはカウンセリングみたいですね」と言われたのだが、まさにそのとおり。
ただし、カウンセリングという言葉は使わず、ダルシャナという。
サンスクリット語で、師と弟子の間で行われる1対1の対話のことを言う。

疑問や相談事があるとき、師と二人きりになって話を聴いてもらい、アドバイスや指示を受ける。ヒマラヤの伝統的な方法だと、師と二人で布を被って行うそうだ。完全に二人きりになるようなことはアシュラムでは難しいからだろうか。もっと深い意味もあるように思う。

この対話はヴェーダ智慧に則って行われる
そのため、ヨーガ教師はヨーガの智慧を学び続けることと、自分の経験から生じ続ける記憶を生涯かけて浄化し続けることが課されている。

アメリカ的なヨーガの先生たちは、ヴェーダ聖典を勉強するのだろうか? 
話に聞くところによると、1泊2日でインストラクターの資格をもらえたりするそうだが、2日ばかりでヴェーダ智慧を学び、自分の過去の経験を智慧に照らし合わせて再認識することはできないだろう。それじゃあどんな土台の上に指導を行っているのか、不安になっても仕様がないではないか。一部の指導者に対する私の懸念は、杞憂ではないはずだ。

インドには6つの哲学の学派(シャッドダルシャナ=インド六派哲学)がある。
ヨーガはそのうちの二つ、ヨーガ学派とサーンキヤ哲学を基礎としている(二つの違いについて話すと長くなるので割愛する)。


「ヨーガ・スートラ」「バガヴァット・ギーター」を始めとした教典を読んで勉強するのだが、ヨーガを実際にやっていないと(いや、やっていても)わからないことが多い。なので、師に講読して貰いながら読んでいく。

ヨーガには確固たる人間観がある。
病気や不幸をどう捉えるか、生や死についてどう考えるか、という人間の根本となる悩みについて考え抜いてきた結果として、体操を始めとする行法をお伝えできるのだと思う。

人の悩み苦しみや、肉体の病気がどのように生じるのかについて教典は教えているので、病因論や人間の構造論なども備えている。
また、ヨーガとアーユルヴェーダは車の両輪と言われて、指導者はその知識も持った上で指導に当たるのが望ましい。
なぜなら生徒さんの多くは、心身の不調を抱えて教室の門を叩くからだ。実際に今どこかが痛い人に、哲学的なことだけ話しても助けにならない。

日々の養生法や、心身の浄化法をアーユルヴェーダは教えてくれている。老化は病気だと捉えている医学なので若返りまでカバーしている(ラサ―ヤナ科という若返りの部門がある)。

ラサは体内を巡る精髄を、アヤナは特別な研究を意味し、健康で長く生きるための方法を教えているのだが、アーユルヴェーダの師 B・バット博士によると、瞑想が一番効くそうである(確かにバット博士は、初めてお会いした時からまったく変わらないように見える)。

頭のなかで思考をぐるぐる回すことは老化も促進し、当然ながら肉体に病気も生むということ。
ということでふりだしに戻る。

教典の教えと自分の実体験を持って、真に健やかな在り方を伝えて、そのように生きて欲しいと思っているのならば、じっくり話をするしかないのだ。
だからこそ、指導においてダルシャナは必須である。