蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№91 絶対などないから

先程、大切な友人とのやり取りの中で、スガシカオ氏に関するコラム記事を勧められ読んでみた。

「本当につらい時って『溺れてももがかないこと』が大事なんじゃないか。もがかなければ、自然に上へとあがっていく。何カ月でも、もがかずに、どこまでも耐えること」
というスガさんの言葉にとても共感する。

うまくいかない時にあえて動かないというのは、かつて大きな挫折を経験した時に学んだ智慧でもある。そうしてじっとしていると、「苦しい」と思うに至った自分の思考の枠組みに対して疑問を覚えるようになる。

ある集団で大事にされることと、また別の集団で大事にされることは異なる。自分が前提としている決まりごとが、実はその場所だけの限定的なものであることを意識しているのは非常に大事だ。
優れた考え方が、原理主義のように人を傷つける論理として用いられていることがある。人が成長するということは、自分の「当たり前」であった、ある限定的なものの見方、考え方から外れてものごとを新たな視点から見ることができるようになることだ。
「ネティ、ネティ」という言葉の真の意味がそういうことなのかどうか分からないが、だんだんと「これも絶対ではない」「これも真実ではない」、そんなものは実はどこにもないと気付いていくことが修行の到達地点と言えるのではないだろうか。

ひとつひとつ信じていた足場が失われていくとき、たまらなく不安になることも経験する。そもそも足場が不要なんだと悟ったとき、どれほどの安心感が胸に湧きおこるであろうか。ちょっと騙されて夢中になっているくらいの方が、生き易かろうと思う。

ひとつのものの見方の軛から解放される時、その見方を現に採用している人を否定してしまったかのように感じてしまうことがあるのだが、そんなことを思う自分の感覚こそが、恐ろしく収縮してしまっていることに気付く。
今、私が採用している枠組みは、私を助けて(拡げて)くれているだろうか、それとも苦しく(収縮)させているだろうか。
間尺に合わない了見を持っていることに気付いたら、すぐに捨ててしまえばよい。世界は多様なのだから。