蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№467 なにもできない

美しき誤算のひとつわれのみが昂りて逢い重ねしことも  岸上大作

 

 

次女の遠征の送迎に、入部以来4年目にして初めて行かせてもらった。倉敷にほど近い県立玉島高校。強豪校だという(母は何も知らない)。
遠征や試合がようやく解禁になりつつある。来週は新人戦。みな一試合しかできないそうだ。気分は盛り上がらないだろうが、それでも大事な一歩には間違いない。

 

周囲の、懸命に生き、目の前の事象に取り組む人たちを見ていると、なんの助けにもなれない気がして心が沈んでゆく。言葉をかけるか、ただそばにいるか、触れるか。思い続けるか、祈るか。いずれにしてもさして役には立たないと思わされる。でもそうしたいのだ、せめて。

 

セラピストという名の下に人に寄り添わせて頂いているが、時間と料金でお互いをまもった一定の枠のなかであるからこそ、何事かの貢献ができるのかもしれない。個人的な交友関係になると、そのような枠組みがないからこそ絶望的な気持ちになることがある。

 

専門性をもって人と寄り添うときも、個人的に寄り添うときも、自らの腹の底や胸の奥から聴こえてくる言葉に忠実であろうと思い、恐れや作意なしにそれを伝えたいと思う。

 

遠征先の駐車場で仮眠をとっていると、逝去した友人が夢に出てきた。
「残念だけど、今回は行くことにしたから、みんなによろしく。」と言う。茶色っぽいスーツをパリッと着こなして、スッキリした姿だった。ヘンな表現だが、元気そうだった。とてもリアルな夢だった。

みんなによろしくと言いながら、きっと自らみんなのところを回るのだろう。仏教の思想では49日を過ぎるとほとけさまになるというから、その前に人間としての仕事は済ませておこうと思い立ち、初七日も過ぎたところで順次ご挨拶回りをすることに決めたのだろうか。気が早いような気がするが、実にお兄ちゃんらしい。

 

人は過酷な経験を通じて、人間としての構造の変容を迫られる。
誰もそんなことは求めていないと思う。
ほんとうは安心して、変わらずいつも通り生きていられればいいはずだ。でも、社会や環境や人間関係がそれを阻む。

成長は素晴らしいよとか、発達はいいよとかいう話はに乗っかりたくない。ただその人が幸せであってほしい。私はヨーガの教師だから、体操や対話を通じて、その人がもっと気持ちよくなる術を見出し、自分でそうなるための手伝いができればいいと思う。それ以上のことは、私にはできない。

 

自分ひとりでがんばって生きることはとてもつらいし、それはきっとできない。
だから助けてくれる人と出会うことがとても大事になる。

「今の自分でもいい。だいじょうぶ。足りないものなどない。」とほんの一瞬でも思えることが、支援者に出会う助けになると思う。非現実的に聞こえるかもしれないが、そう自分に言い聞かせていると何かヒントが降ってくる気がする。せめてそのヒントに出会って、勇気を出して人に甘えて欲しい。手を伸ばして欲しい。

 

嫌われたらどうしようという思いを捨てて、手を伸ばしたい。そう思いながらも、この手がいったいなんの役に立つのかという葛藤が生まれて、私を苛む。こんなことを思ってしまうのは、自分のなかの影の問題も関わっているだろう。

だから自分自身とこそ向き合いつつ、今この瞬間も私の心を奪ってやまない人のことを思い続けている。
ただ良かれかしと、祈り続けている。
他になにも、できないから。

 

 

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岡山県立玉島高校の道場にかかっていた額。
見えないものを大事にするところに、強さが生まれるのか。