蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№448 すてきなゆめ

出張3日目。不在宅では、長女がオンライン授業の合間に家のことをやってくれている様子が伝わってくる。

この月末に二十歳の誕生日を迎えるこの子は、大学に行きたいという思いを通じてこの2年で大いに成長した。生徒会長まで務めたような子なので、ぼんやり何も考えず推薦で進学できたであろうに、「自分はほんとうはどうしたいのか」ということに若いながら真剣に向き合い、「どうしていいかわからない」「決められない、決めたくない」という混沌とした状態に自分を放り込むことができた。これは実に素晴らしいことであったと思う。同時に辛く苦しい経験でもあっただろう。

自分の内面を他者に開示して立ち上がっていく人もいるし、すべてを内に秘めて耐え抜く中で道を切り拓く人がいる。どちらがいいということはない。
開示する場合は受け容れてくれる相手がいることになる。秘めている場合に、そういう支えてくれる存在がないかというと、決してそうではない。

本人は秘しているつもりでも、その葛藤は存在から滲み出るものだ。その滲み出るなにかが美しく、人はそれを感じ取って心打たれる。まるで美しい花を見て、自然に涙が溢れてしまうような体験。
私たちは常に、なにものからも切り離されてはいないのだから、オープンにしようが隠していようが支えは与えられ続ける。

人間は五感で世界を感じ取ろうとするけれども、実は五感はあやふやな道具であってすぐに嘘をつく。なのでヨーガではこの五感から得る情報を客観的に見ながら超越し、道具として使いこなすことを目指す。ここでも度々この言葉を紹介しているけれども、これを制感(プラティヤハーラ Pratyahara)という。

この制感が達せられたとき、大きな解放感に至ることができる。
美味しいと思いながら、その味に溺れることのない自由。目で見るもの、からだで感じるものをそのままには評価せず、その奥にあるものを見つめようとし、見つめることのできる自由。

その奥にあるものとは?
いったい誰が、その感覚を感じているのかということ。
私はからだではない。私は、私が感じている感覚ではない。感じる心ではない。
誰が感じているのか?その認識の主体はいったいなにで、どこにいるのか?

さて話がややこしくなってきた。これを読みながら困惑しておられるかもしれない。
要するに聞きたいのは、「ほんとうのあなたとはいったい誰?」ということ。

この「私はだれ?」を調べていくとき、「ネティ、ネティ」という言葉が使われる。
ネティ、というのは「違う」という意味。
「それじゃない、それじゃない」と言いながら自己の本質を探っていく。

ヴェーダーンタ哲学に触れてきて一元論の世界観を採用している私が「神様」という言葉を使うとき、それはこの世のありとあらゆるところに在る(=遍在する)力、エネルギーのことを意味している。この力なくして、私というなにかがここにいることを感じることはできない。だから私はそもそも単に、このエネルギーである。

禅の言葉で「父母未生以前本来面目(ぶもみしょういぜんほんらいのめんもく)」というものがあるが、私をこの世に生じさせた両親がまだ生まれていないときの自分の本来の顔ってどんな顔だったのか、それを思い出すことと、ネティネティと言いながら本当の自分を探すのは、同じことかな。

ここにパラドックスがあるのだが、そもそも探すべきなにかなんてないのである。
私たちはどこにも行ったことがないし、迷子にもなっていない。本来の顔を忘れているような気がするだけで、忘れることなんてできないのだ。だからこれは壮大なごっこ遊びである。

といったようなことを、時々目を閉じて考える。
禅の世界の人は半眼で考えるのかもしれない。

単にどこにでもあるエネルギーである私が、娘を持ち育てるという経験を与えられ、すごいなあとかかわいいなあと思う夢を見ているのだということになっている。
それってとても素敵な夢だなと、しみじみ思う。