蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№90 上手にできなくても

4月16日分

寄り道をして情報収集をしつつ、河合秀和チャーチル」読了。
書店にて、「皇后陛下御歌集 瀬音 増補改訂版」平成31年3月29日刊を入手。


人と実際に会っての対話は本当に大事だと思わされる出来事が、二つあった。
その方々とお話しての帰路、以前、DARCで依存症の方に言われた「先生には、俺たちの気持ちは絶対に分からない」という言葉を思い出す。あの頃、多少は分かってると思って聴いていたような気がするけれど、やはり分からないのだ。分かることはできなくても寄り添いたい、一緒にここにこうしていたいと願う、その気持ちが人と人を結びつける。

ヨーガでは、どこまでも自分自身を見つめるように教えられてきた。
最も理解しがたい自分という者の心を知ろうと努力し続けることで、他者理解が可能になるという。
河合隼雄さんがご著書の中で「人の心の中の闘いは49:51」と書いておられた。
20代の頃に出会った言葉だが、20年以上経ってその言葉の真実味が胸に迫ってくる。自分の心の中で、常に葛藤を感じながら、51である方を見極めて選択をしていく。
「こうしたらいいよ」というアドバイスは人の数ほどあるが、100%真実のアドバイスはこの世にはないから、上手に生きることではなくて経験を積むことを大事にしていきたいと思う。

悟る瞬間にも自我は残っていると教わった。小さな「私」が悟ったと分かる必要があるのだと。なので、今の理解では、私は小さな私の理解にとことんこだわりたい。すべてを「私」というフィルターで理解しようと努めることが、エゴの活動だと批判を受けることもあろうが、そもそも悟りたいという思いがエゴのものだから。
自分の中のどこかで、悟るための努力なんてしなくてもいいことも気付いている。でも夢中で「悟るための努力」という夢を見てみる。

今、私はある経験を通じ、1つの決断をしたところなのだが、このことを通じて以前は理解できなかったことに、自分が開かれていっているのが分かる。
「先生には分からない」ことへの寄り添いが少しは変化させられるような変化であって、こういう気付きに導いてくれた経験と、それにかかわる方々に、本当に感謝している。