蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

大人ってなんだ

旧暦でいうと本日は戌年の最後の日になります。言わば「大晦日」です。
私はどうやら「戌さん」とはなかなかハードな関係性であるらしく、スパイシーな1年を送らせて頂きましたが、明日からお出ましになる「亥さん」とはかなり上手くやれそうだという情報を入手しています。大いに期待しております。

ヨーガの専門家だということで「やってみたい」とのお声を頂き、体験して頂いたりすることがあります。
しかし「何のためにヨーガやってるのか」あまり聞かれたことがありません。
最初から「ヨガって良さそう!やってみた~い!」という長閑な感覚で始めたわけではなく、明確な問題意識があった上でたまたま導かれて辿り着いたのがここだった、という感じです。
この「たまたま導かれて」というのが、誰の人生にとっても曲者であろうと思います。目の前に現れたことに対して、諦めて頭を垂れる生き方がヨーガでも推奨されていますので、その教えを受ける中でこうなった、としか言いようがありません。
皆様も良くご存知の通り、頭もそんなに素直に垂れる訳ではありませんので、心理的格闘の結果諦めて垂らした、というのが表現としては正確でしょう。

「ヨガの先生になりた~い!」と思ったことも一度も無いのでした。
突き付けられた現実に対して、「じゃあやってやるよ!見てろ!」という挑むような気持で指導を始めたので、かなりアグレッシブに勉強に打ち込むことができました。
指導を始めてすぐに「やっぱ大変だし辞めようかな~」と思ったことがあったのですが、尻の毛まで抜かれるとはこういうことか?!というような酷い目に遭ったので、「『ヨーガを辞める』って言うのは絶対に止めよう」と今は心に決めています。

あの時「ヨーガの神様っているんだ!」と思いました。今もいると信じています。
自分がヨーガを「してる」のではなく「させてもらってる」、より正確に言うと「これをさせると決めている」。
自分の回りにも「〇〇の神様」に魅入られた人がたくさんおられて、コーヒーの神様とか、ライフプランナーの神様とか、デザインの神様とか、その方の背後におられるように思います。

さて、「なんでヨーガやってんの?」
当時、色んなことが起こって現実が激しく壊れた上に体までおかしくなって、「良くなる」とか「治る」ということはどうしたら起きるのか、誰にも教えて貰えず五里霧中でした。以前も書きましたが、そんな時に寄り添ってくれた「スペースまほろば」の中野真作先生に、ある本を教えられて「新しい知性を育てたい」と思ったわけです。
体がしんどいのでこれも人に勧められて体操のヨーガを2年ほどやっていたのですが、「新しい知性」を育てようとする中でヨーガの伝統的智慧についての言及があるのにちょくちょく出会うようになり、「ちゃんと勉強してみたい」と思いました。
ヨーガの伝統の中では、「次なる段階に進む準備が出来た時、新しい師が現れる」と言われるのですが、その点、私はとても恵まれており、その時も新しい師の下へと誘われました。
勉強始めたらこりゃビックリ! 宿題で自分の過去についてこれでもか!というほど言語化させられ、その中で間違いなく自分というものが浄化されていきました。
ヨーガの勉強って、書いて話すことですよ、皆さん。いや、ほんとに。
高卒で自衛官になって脳より筋肉を使って生きてきたのに、生まれて初めて卒業論文を書けと言われ、参考文献に池見酉次郎先生とK・ウィルバー氏の著作を用い、「人格の向上について」というタイトルで60頁くらいの「作文」を書きました。論じてない。述べただけ。あれを読まねばならなかった先生に今でも心から同情しています…。
でもあのナンチャッテ論文を書き上げることを通じて、私にとって「何のためにヨーガを行うのか」は明確になりました。

その後、更に勉強を続けるためには教えることが必須だという状況となり、現実も色んなかたちでそれを後押しする中で、教師として多くの生徒さんに機会を与えられ、育てられ、やはり絶妙なタイミングでありがたい出会いを頂きながら、今ここにいます。
振り返った時、確かに私の中で新しい知性は芽吹き育まれ、1日たりとも前の日に戻りたくはないと確信をもって言える生き方を手にすることができました。
人とは決して比較しない「私だけの発達」を死ぬまで続けていきたいし、その為には自分以外の人の力をお借りしていくしかありません。
伝統的ヨーガを学び始めた時、「獣に近い人間から、神に近い人間まで」いると教えられ、お前はどうなりたいかと問われました。神に近い人になれるとは思っていないけれど、死ぬまでの1年1年、去年より獣を離れ、1mmでも神の方に近づいていたい。
そういう切なる思いでする実践を、伝染病のように普及していきたい、という野望を持っています。
亥年に期待します。