蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№212 まだ見ない景色

本日は午前中に大事なミーティングを終えた後、あれこれと小さな用を済ませた。
夕方は筝曲の稽古。
稽古は月に3回ある。箏と三弦の双方を稽古させて頂く。
楽器はお借りするが、爪と撥(バチ)は自分のものを持参する。
今は、3つの曲目を練習している。

来春3月、兵庫県西宮の芸術文化センターにて、菊井筝楽社本部定演。山陰支部の演目で「越後獅子」を演奏する。これは三絃で出演する。
来年(2020年)秋の演奏会は、菊井筝楽社・山陰支部40周年の記念演奏会。米子市
ご宗家をお迎えしての、大切な会となる。
露払いに宮城道雄先生の「都踊り」大合奏とのことで、前回からこの曲の稽古も始まった。これはまだ楽器はどちらになるか決まっていない。まずは箏で唄を付けていく練習をする。
来月の会で演奏する曲は、週末に合奏が始まったので、この場ではもうお稽古をしない。

さて、筝曲のお稽古はどんなものかというと…
お稽古場に二面のお箏が差し向かいで置かれており、奥が先生、点前が弟子、という配置になる。お箏も三弦も、椅子に座って立奏の形で稽古する。1時間近く稽古するので、足が痺れてしまうからだ。

そして、先生と一緒に弾く。
自分の譜面を見て、自分の音を確かめながら、先生の音(正しい演奏)にも意識を向ける。脳がフル回転している感覚。

目が見て、手が弾くのを、意識が観察している。
何かを考えると(「このハジキでいつも間違えるから、気を付けて上手に弾こう」など)思考が邪魔をして、手がミスをする。

家で一人で練習すると、うまくいかない時につい止まってしまうし、「あれ、これで良かったかな…」と考えてしまう訳だが、先生は止まってくれない。稽古では徹底的に訓練されていると思う。考えたって上手くならない。

これを繰り返していくと、だんだん目と手が慣れてきて、弾けるようになっていく。
筝曲は、1曲が10分以上かかる曲が多いが、少しずつ先に進み、いつか必ず終いまで弾けるようになる。

このことが、とても心を豊かにしてくれる。
諦めなければ、いつか必ず弾けるようになる。

あの曲もこの曲も、始めは歌と手(楽器)がてんでばらばら、家で練習してもおかしな具合に覚えてしまっていて、頑張りが仇になる、というような時を経て、「あの苦しみはいったい何だったのかな~」という晴れやかな気分に、一瞬はなる。
だが、改めて演奏してみると、やはり名曲は奥深くやり尽くすことは出来ない。
芸に終わりがないことを思い知らされる。それはそれは豊かな世界。

今日の私は、昨日より少し上手くなっているかもしれないが、行く道の先は常に霧の中のようにぼんやりしている。
ここでは、目は見えても、行く道の先は見えない。
遠くから師匠の呼ぶ声が聴こえるので、耳を澄ませて必死についていく。
振り返ると美しい景色が広がっている。
でもまだ見ぬ先の景色をもっと見てみたい。
そんな気持ち。