蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

書くという約束

ブログで自分の言葉を発する、ということに関しては、何年も前に与えられた課題だったのですが、実際に自分の言葉を何方にも読んで頂ける形で露わにすることに激しい抵抗感があり、時間を要しました。

多くの優れた本に導いてくださったスペースまほろばの中野真作先生に、2010年6月12日にご紹介頂いたこの本。



鈴木規夫さんによる訳者あとがきに、「取り組んでみたいと思われる方にご利用いただけましたら」とご案内がありまして、ええ、もちろんご連絡しましたとも。すぐに。
読んだ次の月には、東京で鈴木さんにお会いしていました。
それ以来、鈴木さんは私にとって「先生」になり、あるときのセッションでこう言われました。
「たとえ誰も聴いていなくても、世界に対して自分の声を発し続けよ」。

もうお一方、鈴木さんを通じて出会った、知性発達学者の加藤洋平先生。
ゼミナールの修了時に、「ブログを始めたら連絡して」とのお言葉。
加藤先生の出してくださる課題には常に苦しめられ、そしてその都度初めての何かを体感させて貰ってきたので、いつか必ず…と思ってきました。

このお二人からの課題に応えるのに、何年かかったことか。
ブログを始めても、ご報告するのに何カ月もかかったのですよ…
自らの言葉を表現することに、なぜこうも恐怖を感じたのか。
このことについては改めて考えていきたいと思います。

ヨーガ修行でも、瞑想後にレポートを提出する訳ですが、これに関しては警告が出ていて、
「警告 レポートを出さないと受信学習にはなりません。木村慧心」
とあります。
これは単に「瞑想しました!」という証拠や、単位取得の為ではない訳です。
あるお題を与えられて瞑想し、のちに文章にまとめ上げる際に様々な言葉が湧き上がってくるのであって、その「お題」を「わたし」が瞑想したというそのなかに、これまで生きてきて醸成された(もしかすると腐敗かもしれない)「わたし」というものの何かが滲み出てくる、それを改めて検証してみよ、ということなのだと理解しています。

医学的には、1日20分程度思考から離れて静かにしているだけでストレス性疾患の発症が抑えられるそうですが、肉体のレベルで健康を求めることだけのために座ったりしたくはないし、その時自分の中にあったものに表現の場を与えなければどこかに飛び去ってしまい二度と分からないかもしれない、と思います。
ブログを始める前から日記を書いてきましたが、そちらも辞めずに継続していきたいと思います。

改めて、私の実践を後押ししてくれる方々に深い感謝を。