蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№825 脱・ミッション鈍感

私は人のいうことを聞かないとよく言われている。
まああながち嘘じゃないから渋々受け容れよう。

 

しかしここには反論の余地がある! 

こりすの囁き声で、その見方は8割間違っていると申し上げたい。

 

人のいうことを聞かないっていうか? どういう人のいうことを聞きたくないか!ってことは明確な指針?、いや、嗅覚があるのである。

 

ズバリ、

ほんとうの自分との軸がブレちゃってる人のいうことは、聞きたくないなあ。

 


この仕事を始めて10ん年。生きることに悩んで疲れて、中野先生に助けを求めて約20年。当時の自分は自分が何を考えているのか、マジでさっぱりわかりませんでした。ましてや何を欲しているかなんて。

 

「やりたいこと」が人に乗っ取られた状態。フィットさせるのがすごくうまいが、えーっとそれってほんとに私がやりたかったことだったっけ?と首を傾げながら生きていた。もう病的、っていうか病気でした。診断名ついてた。人に合わせなければ!と、ムリなことばっかり考えすぎておかしくなりました、っていう病名。

 

今は全然それムリ。

 

そういう友達ばかり周りにひしめいてる。
え、やりたくないっす、イヤっすと言える人ばっかり。

 

何飲みたい?って聞かれて「おまかせします(ハートマークで)」って言えない。

 

「あー、このアテならワイン。白、断固白で頼みます。」という言葉がナチュラルに出る。もう考えてすらいない。天から啓示が降りるように「白ワインしかないやろ」と言葉が出ちゃう。神のお告げレベルである。

 

 

自分は何がよかったんだっけ?!と悩んでしまう生徒さんに、私が出す宿題がある。

「これから家に帰って寝るまでの間、すべて自らの選択として選び抜け!」

 

例えば、ぼんやり道を選ばない。ぼんやり音楽を聞かない。ご飯を食べるときになんとなく食器を選ばない。なんとなく飲食しない、など。

 

今日、この瞬間、私はこの道で行く!
今はなんとしてもこの曲が聴きたい!
今日はどうしてもこの皿で食べたい!
今日はビールじゃない。どうしてもワインがいいけど今ここにないから、心の中にワインを宿しつつ、恋焦がれて寝る!

 

とまあこんな感じ。あー、暑苦しい。

でも、こういう訓練を繰り返していくと、ちゃんと「ん?」って思えるようになると私は思っている。この「ん?」っていうのが、本来の自分とズレているサイン。

 

 

意識は必ず統合へ向かう

 

正しいベクトルに向かうとき、内的には 安らぎ、喜び、静寂、神聖さ、愛、創造性、充実感 という感覚がある

 

それが皿だろうが道だろうがビールだろうが、自分の内的感覚とバチッ!と合ったとき、息が深く吸い込める。うん、これでいい、いや「これが」いい、これでなくちゃダメなんだって思える。

 

 

私は正しい方向=私の魂がYes!と言っている方向に、向かえているのかどうか? 

うん、いいんじゃない?という安らかで満足する感覚を感じているか?

 

Yogaの身体的実践は、この感覚を明確にしてくれるものだと思っている。

 

体は決して嘘がつけないのです。しかし、嘘はつけないのだが、低め安定で頑張ってしまえるという驚異的適応力を発揮してしまう。このときに使うのが「感覚を鈍くさせる作戦」、名付けてミッション鈍感

 

身体的鈍感力が上がっている人は、不健康方向に突進してしまいますので、メディカル・ヨーガ的実践で鈍感スイッチを早急にオフにしてください。いつでもお手伝いします。

 

 

断固白ワインで、って書いてるとき、Kさんちで死ぬほど飲んだことを思い出しながら書いた。そろそろまたお邪魔したくなってきた。

 

 

 

 

№824 すべて完璧

今日は月一度の講座の日でした。少数精鋭?の超こじんまりとしたリアルセッションです。

 

私は営業活動をほぼ夢でしか行わないので、秘密結社の集まりのようになっていますが、参加している方々のここ数年の内的な変化と、それに伴う現実の変化を見るととても感慨深い。

 

特に、参加者の日々の生活の中で起きる事象が、大きな意味合いでシンクロしていくのが非常に興味深いです。

 

 

最近の私は激しい苦悩(私的、内的に)のなかに生きていたのですが、今は大きな変化の中に身を置いています。また泣いちゃったけど、みんなが助け起こして涙を拭いて、慰めて話を聞いてくれるので、最後にはエヘヘと泣き笑いをしながら「ありがとう」とお礼を言えました。

 

 

この道を選び生きはじめてから、自分に嘘をつくことがどうしてもできなくなりました。これは世俗的な決まりとかそういうことに従うということではなくて、私にとって座りの悪いことはできないとか、きれいだと思えないことはできないという感覚です。

 

私にとっては座りが悪くても、そこでばっちり座れちゃう人もいます。でも私は座り心地が悪い上に、それがすごくストレスになっちゃうということになる。その感覚を大事にするということが、自分に嘘をつかないということです。私にとってはね。

 

そこを曲げちゃうとチャクラがズレるっていうか? そんな感じです。

友達のよっちゃんの造語に「もやもやステイ」という名言があるのですが、まさにそんな感じで、もやもやしながら「待て!」と言われてもう泣きそうな感じでした。いや、マジで泣いてました。

 

それで一生懸命ちょっと違う座り心地で頑張ってきたのですが、頭がおかしくなりました(当社比)。ホルモンがおかしいっていうか? 扁桃体暴走モードで、鍼の先生には「肝の脈がどうしても調わん」とよく言われていました。

 

が、しかし。


絶対者のお仕事はいつも申し上げている通り、常に緻密にして完璧。

私に起きたことも、受講生の皆さまの身に起きたことも、絶対的必要体験だったのです。

 

 

そもそも変化・変容というものは、今のマジちっちぇえ!!自分にとっての「不幸的体験」を通じてしか起こり得ません。インド5000年の智慧・Yogaの教える通りです。

 

この不幸的体験に関係者がいたとすると、それはすごいご縁で、ありがとうを何千回言っても足りないくらい。

 

”リアル私”をご存知の方は、(言いたくないけど)私のエネルギーと圧の強さと、声の大きさと口の達者なことはよくご承知のことと思いますが、かなりひどいことも平気で言っちゃう悪いヤツなので、自分のやらかしたこと、言っちゃったことを思うと穴があっても入らせてはもらえないだろうと思うくらいなのですが、

 

でもしかし。

 

ここのところの私は、マスターマリコのご支援の賜物か、こんな自分でも容易に許せちゃうのでした。ダメな自分でもOKと思えると、許せない人はこの世に誰もいない。自分が一番ひどいから。

 

だからありがとう、ごめんね。一緒に体験をしてくれてありがとうねって、いつも私に関わってくれているみなさんに、申し上げたいと思います。

 

ありがとう。ごめんね。
あなたはいつも揺るぎなく、あなたの最高最善を求めてね!

 

 

 

№823 OasisのしあわせなForum2022

 

先日、Oasis Forum2022にゲストスピーカーとしてお招き頂いた。
今年からは「透析患者サミット」と名称も新たになり、その記念すべき初めての会でした。

oasismedical.or.jp

 

Oasis Forum=透析患者サミットってなんなん?

ということですが、これは敬愛するリーダーが透析患者さんのために年に一回開催している会で、私は三年前から参加させてもらっている。これまでは単に自宅でお茶を飲みながらリーダーのお話を聴く側だったのに、今年は画面の向こうにいる人になったってことです。これってすごいことやろ!大出世ですよ。うれし〜

 

そこでなにをお話しさせて頂いたかというと、ズバリ「健康」。私のど真ん中!

 

何十枚もスライド作って、時間が足りなくなって弾丸トークでまくしたてたという、反省しかない結果に終わりましたが、心優しいリーダーはじめスタッフの皆様は一応褒めてくださった。しかもお礼までくださった。なんだか申し訳ないけれど全力でやったからいいか!ということで。

 

 

Well-being、要するに健康について、みんなあんまりちゃんと考えていない。

 

神は細部に宿るのだが、同時に全ての存在理由でもある(この神は髭を生やしたおじいさんじゃなくて、すべての因である絶対者ブラフマンです)。だから大きな枠組みで「健やかであること」をちゃんと見つめていなければならないと思う。

 

医療機関でこういうことを考えている人が、悲しいことにほとんどいない。部分末端に何か手当てをするだけじゃダメなんだ。だから、クリニック経営をしながらそれを取り上げちゃうこのForumは、ほんとうに!すごいんだよ。

 

患者さんは実は不調にばかり目がいくから、目的が「健康やしあわせ」に据えられていない人がすごく多い。

そのことについてこの会でハッとした人が、一人でもいてくれたらいいなと思う。

 

 

私たちが欲しいのはしあわせ。
しあわせに生きるための土台として、健康がすごく重要。
なにに向かって自分の提供サービス(私の場合メディカルヨーガ)があるのか、一瞬たりとも忘れてはならないと思う。

 

私は生徒さんをしあわせにするお手伝いがしたい。
ほんとうは人間存在とはよろこびそのものだから、正確に言うとしあわせであることを忘れてしまっているだけ。このしあわせな状態に「戻る」ことが”Yoga”という言葉のほんとうの意味。

 

しあわせであることを思い出すために、いろんなやり方がある。そしてこのForumやリーダーのやっているお仕事は、正に「それ」なんだと思う。

 

だからこの組織やそこで働く人たちのことを、私はすごく尊敬している。もっともっと世の中に認知されて欲しいと思う。自分にできることはやっていかないとな!と心に決めている。

 

 

透析患者さんのための会で話すことを通じて、私は本来的な意味での”Yoga”のために働いた。

それってよろこびそのものでした。貴重な機会を与えてくださった関係者の皆さまに、心からの感謝を。そしてますますのご発展をお祈りします!

 

 

 

№822 真反対に

このひと月、稀に見る豊かな時間を過ごすことができた。
というのは今日ようやく言えることであって、渦中にあるときは豊かだなんてとても思えなかった。

 

こういうのは数年に一度あるかないかの、とても貴重で得難い経験だと思う。
たぶん、きっと。

 

自分の中では何年もがあっという間に過ぎ去ったような濃密な時間だったのだが、ほんの僅かな時間しか経過していないのだ。近くにいてくれた人からすれば、実に迷惑な話だと思う。

 

 

心理療法家の河合隼雄が長年の臨床経験から、人の変化は角度にすると20度とか90度とか少しずつ順を追って起こるものではなく、気づきとともにいきなり180度真反対に振れると書いている。

まるっきり変わるので周囲の人は猛烈にびっくりして信じられないというが、正にその通りだなと自分では感じている。

 

でももしかすると、明日にはまた180度クルッと回って元通りになってしまっているかもしれないし(いったい何だったんだ?的に)、今は慎重に自分をモニターしないといけないなと思っているところ。

 


2年ぶり?に、スペースまほろばの中野さんとセッションをさせてもらった。
この方は以前、私がほんとうに死を選びそうになったとき、なにも言わずそばにいて共に時を耐えてくださった方。私のなかで、絶大な信頼感がある。

 

十数年にわたり定期的な対話を繰り返してきたのに、なぜかこの2年お話しすることが叶わなかった。でも昨日、お互いの間でその訳がわかった気がした。

 


苦しい苦しいと思って過ごしていたけれど、以前中野さんがそばにいてくれてようやくくぐり抜けられた経験とは全然違って、ほんとうは優しくて豊かなプロセスだったと気付いた。前は怖いくらい孤独で、消えてしまいたかった。自分がボロ雑巾のように思えて、なんの価値もないように感じていた。この世にいる資格がないんじゃなかいと。

 

でも今回の体験は、もっとこんなふうな体験がしたいなあ!という欲張りな願いが叶ったもののようだった。それでもエゴが刺激されて痛むので、死ぬほど苦しいような気がする。でもこれも、気がするだけで別に?って感じ。 

 

かさぶたが剥がれるとそりゃあしばらく痛いけど、そんなことで人は死んだりはしない。でも「死んじゃう!!」と騒ぐことも自由だから、そうしたければやっていい。これまたそばにいる人には甚だ迷惑なのだが、そういう体験も許されていい。

 

 

マスターマリコが「魂的には万事OK」といつも通訳してくれていたのも、マスターのおともだちアイちゃんが「Yes! 充分です」と伝えてくれたのも、今のこの経験が、実のところ存在の奥底から自分が望んでいたものであることを教えてくれる。

 

思えば苦しい苦しいと思っていたときも、必ず誰かがそばにいて慰めてくれたり助け起こしてくれた。エイドステーションと有能なスタッフが完璧に調えられたコースで、安全なトレーニングをしていたようにも思える。

 

必要なことは適宜適切に必ず起こる。避けることはできない。信頼していればよい。でも疑って泣いてもいい。あるがままでよい。

いつも絶対者の仕事は緻密にして完璧とか書いていながら、うっかり記憶喪失になったように忘れてしまっていた。ダメやん。

 

エゴイスティックな顕在意識の「こうなったらいいな〜」的な軽い願いなんてぶっ飛ばされるような、「そうなんです、ほんとうはこういうことがやりたかったんです」と土下座して絶対者に謝るような、そういう体験だった気がするのだが、妄想だろうか?

 

 

そばにいて猛烈に振り回された関係者の方がこれを読むことはないかもしれないが、気付きと共に次元(ステイト?)が変化したらしい私に、寛大な心で今後も接してくださることを祈る。

 

ありがとう、いつも助けてくれて。

 

 

 

 

№821 癒しの場所

軽井沢から帰ってきました。24時間ほどの滞在でしたが、最高の体験でした。

 

連日雨続きだったそうなのですが、私が伺った時は抜けるような青空でした。晴れ男だった健太郎にいちゃんの霊力?を譲り受けたのか、近頃はあまり雨に降られることがありません。ホストの方に「龍神さんついてるでしょ」と言われてましたが、もしそうだとするとなかなか面白そうです。

 

とにかく素晴らしい天気に恵まれて、素晴らしい景色を堪能しながら、何もしないという贅沢な時間を満喫させてもらいました。

 


ここのところ私は、愛についていろいろと考えているところなので、機会があればいろんな方に尋ねて回っています。

 

その結果気づいたのは実にシンプルなことで、しあわせな人はしあわせな愛を語り、イマイチそうではなさそうな人は全然しあわせじゃなさそうな愛について語る(ということはそれはたぶん愛ではない)、ということでした。

 

 

しあわせな愛について語ってくれた人は、誰であれ人の行為行動を決して批判しませんでした。「いろいろあるわよ〜」と、心の底から「そら生きとればいろいろあるわな」と思っている顔で語るのでした。

 

さらには、時代や制度を超えた普遍的な価値観に基づいて話をしてくれました。たかだかどこかの国家がしばらく前に決めたようなものを盾にして、人を縛ったり責めたりするようなことを決して言いませんでした。

 

要するに、視点が近視眼的ではありませんでした。それこそ龍が悠々と空高く飛びながら、地上の有り様を「楽しそうやねえ」と思って見ているような、長いスパンで物事を鷹揚に構えて待つ、堂々たる姿勢があるように見受けられました。

 

 


昨夜、軽井沢で、なぜかわかりませんが大号泣してしまいました。今日は午後から大事な人とお話しする機会があったのですが、目が腫れてしまって恥ずかしい思いをするほどの涙でした。

 

そこは最高の場所で、最高の空間です。ここにくると人は解放されると聞いていましたが、その通りになりました。渦巻いた感情が迸って涙になって溢れ出し、自分の中の塵が流れて洗われたように感じました。

 

 

Yoga Vasishthaにも、幾度も繰り返す生の物語がいくつも語られています。あたかも人が一夜の夢でさまざまな人生を生きるが如く、実際の人間の生も、この一度きりの体験にしがみつくようなことは不要であると教えてくれています。ただそこから何かを気づきなさいと。

 

ここではない別の場所、別の時代に生きたとしても、その価値が常に変わらない大切なものはそんなに数多くはありません。

 

尊いなにかと自分が別ものであるということも、言っていません。小さな自己(自我)と大きな自己はひとつであって、決して別れることもなければ、そもそも初めから一度も別れていなかったことを思い出すようにと促してくれます。

 

自他を巻き込んだしあわせを追求すること。人を尊重しながら、自分を疎かにしないこと。自らを大事にすることと、人を大切にすることの重みに差はないのだから、誰かを大事にしたければ自分のことも尊重しなければならない。

 

時代や状況やその他諸々の瑣末なことに心を煩わされず、最も大切なものを信じ、見続けられるかどうか? それを私は今、問われていると感じます。

 

「コミュニケーションは一切を包み込むものであり、それが再確立する平安のなかで、愛は自ずと訪れる。」ACIM 15章7節

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

№820 愛なのかどうか

はくたか、という新幹線に乗っています。
これから人生初軽井沢上陸です。

小学生のときからなぜかわからないけれど、上皇后美智子さまが大好きで、私のゴールデンシャドウだったなあと思います。どの部分がどんな風にシャドウなのか、改めて考えてみたいです。

軽井沢=テニスコート美智子さま

という連想ゲームがこころのなかで勝手に行われて(昭和だなぁ!)、ドキドキしているところなのですが、このドキドキしちゃうことが我が心の底にナニカアルなって感じですね。



人間が目で見て妄想するものなんて、あれもこれも投影に過ぎないのでしょうが、そうなのであればこそ、できるだけ尊いもの、美しいものを投影できるようにしたいものです。

そうでなければ、投影なんてしちめんどくさいことはしないで、ありのまま目覚めて生きたいです。


かの人がなにゆえそんなに「すごいなぁ」と子供心に思えたかというと、文句を言わず我が人生にコミットメントして生きていると見えたからではないかと。

まわりのおとなって愚痴や文句ばっかやな~、と感じていたのです。かくいう私も肉体だけは成長した「おとな」と言われている今、勘違いをして文句を云っては絶対者による愛の指導を受けるということを、懲りもせず繰り返しています。



愛ってなんなん?

という問いをもったとき、ひとつのこたえとして、yogaでは「愛の三角形」ということを教えています。

Bhakti yogaは、神に対する愛に生きる信仰の道です。その教えのなかで、愛ってこういうものだよ、この要素を押さえられてないのならば、愛のように見えるニセモノだよということを語っています。

曰く、

愛は無条件であること
比較しないこと
怖れをもたないこと


よし、この人を愛そうとこころに決めたら、決して揺らがない。まわりの雑音に耳を貸さない。こころが揺れることがあったとしても(人間だから必ずあるはず)、怖れを手放すことを選択し続ける。

子供の私には、そういうことをしておられるように、美智子さまのことが見えたのかなーと思ったりします。


それがゴールデンシャドウだとするならば、自分という者の奥底に、ずっと昔からBhakti yogaが教える愛のあるべき姿が刻み込まれていたのかなと思うのは、希望的妄想でしょうか。それともここに来るずっと前に、いつかどこかで知っていたことを、うっすら覚えているのでしょうか。



私の近くに、愛の三角形のことを(bhakti yogaのことを)全然知らないのに、これとまったく同じことを語ってくれる人がいて、そこに生きようとされています。

アホな私はその価値と素晴らしさに気付けていなかったのてすが、昨日の夜、ウィル・スミスの「七つの贈り物」という映画を見ているとき、ようやく愛の三角形のことを思い出して(それまで忘れていたわけです)、

ああー!!!

と、改めてその方の言葉の素晴らしさに気付かされました。ありがとう、ウィル・スミス。

またこの方とお話ができればいいなと思いましたし、私も三角形を充たす愛というものを真剣に考えて、できうるならばそこに生きてみたいと思ったのです。

かなりの修行が必要な気がしますが、せっかく人として生まれてきたからには、諦めず取り組み続けたいと思います。

№819 過去をずっと

マスターまりこから伺った名言に関して、さっそくお問合せをくださった読者がおられました。

 

あ(阿)!といったら即座にうーん(吽)と返ってくるような反応に、こりすのハートはぶるぶるふるえちゃいましたね。

 

なのでいくつか頂いた名言のうちの一つを、今日ご披露します。

 

ズバリ、「過去はずっと持っていたら腐る」。

 

実をいうと、これはマスターがある方(その世界での超有名人)から伺った名言だそうなので、正確にいうとマスターが衝撃を受けた名言です。

 


このお言葉、ほんとうにショックでした。

なぜかというと、Yogaの世界で、今の自分がなぜこうなのかを理解するために過去の自分の振る舞いを検証するべし、と教わってきたからです。言わば、過去を「素材」として活用するわけです。

 

しかしこの素材=過去の記憶を、今、思い出せるということは、自分にとっては今現在のリアルタイムな事象です。ということは、ずっと後生大事に持っていた腐った記憶ということになります。

 

 

聖典の教えを学んだら、その教えに即して過去の自分がいかにバカだった(無智だった)かを詳細に振り返り、客観的に検証します。言語化してレポートにし、複数の師に読んでもらいます。慣れない頃はこれが猛烈に恥ずかしかったものですが、人間なんにでも慣れるものです。3年間の課程受講中、お昼にみんな一緒にカレーを食べながら、自分のバカさ加減を披露しあいました。

 


こういうことをやっていると都合のいいことに、だんだん自分がバカであることが人間がこの世に存在することの所与の条件のようにも思えてきて、「しょうがねえなあ、ははは」という脱力感に満ちた笑いが出ます。

 

過去の自分もそんなもんなのですから、今の自分だって知れたもんです。
それなのに人は、いや私は、大いに勘違いをし、なんだかイケてるような気になってブイブイ言わせたくなります。

 


絶対者のお仕事は緻密にして完璧ですから、こういう調子に乗った自分に対して愛の鉄槌をしっかりくらわしてくれます。くらわすって九州弁ですね。要するに、教え導いてくれるということです。絶対者の仕事に対して、人は決してNOが言えません。

 

ずっと持っていたら腐るという過去ですが、振り返ると人生そんなことの繰り返しばっかりで全然成長してなかった、ということをはっきり教えてくれます。その点はすごくシンプルで、いいじゃないの!と感じます。

 

どんなものも使いようですので、腐らない類の使い方をしさえすればいいのだと思いますが、もうちょっと先に進んで超シンプルな解決策を求めるとすれば、

 

もう、考えるのやめとき

 

ということかもしれません。雑念を捨て、今この瞬間に集中せよ!

 

しかし、うんと長いことYogaの世界にご縁を頂いていながら、このことがやり抜けない領域に順次直面させられ、その都度翻弄されます。言い訳ですけどね…

 

 

心弱い者は、刺激を受ける領域から走って逃げてよし、少し離れたところで心の平安を図るべしと、Yogaは優しく言ってくれます。ほんとうはそこからまた打って出て、傷つき逃げ帰り、泣きながら平安を求め、涙が止まったら畏れつつ打って出てまた泣く、ということの繰り返しが、人が生きるということなのかもしれません。

 

そういう勇気が持てるといいと思います。人に助けを求めるしかない時もあります。自分ひとりで悩まないことは大事ですが、ひとりでじっと悩み苦しむことも大事な経験なのでしょう。

 

 

苦しみに晒されたとき、智慧しか救ってくれないということは知っているつもりです。自分という卑小な者の、人としての器を少しでも大きくすることこそが救いだということも知ってはいます。この器がほんの少し大きくなるとき、耐え難いほど痛むということもわかります。

 

私は世界と一体でありながら、同時に孤独です。

 

ひとりここに立って、圧倒的な孤独の裡に涙しながら、こんな自分がいったい誰の役に立てるのだろうかと悩みます。卑小な自我のなかに繰り返し想起する腐った記憶を超え、自らを人のために明け渡せる日は、いつかくるのでしょうか。