蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№822 真反対に

このひと月、稀に見る豊かな時間を過ごすことができた。
というのは今日ようやく言えることであって、渦中にあるときは豊かだなんてとても思えなかった。

 

こういうのは数年に一度あるかないかの、とても貴重で得難い経験だと思う。
たぶん、きっと。

 

自分の中では何年もがあっという間に過ぎ去ったような濃密な時間だったのだが、ほんの僅かな時間しか経過していないのだ。近くにいてくれた人からすれば、実に迷惑な話だと思う。

 

 

心理療法家の河合隼雄が長年の臨床経験から、人の変化は角度にすると20度とか90度とか少しずつ順を追って起こるものではなく、気づきとともにいきなり180度真反対に振れると書いている。

まるっきり変わるので周囲の人は猛烈にびっくりして信じられないというが、正にその通りだなと自分では感じている。

 

でももしかすると、明日にはまた180度クルッと回って元通りになってしまっているかもしれないし(いったい何だったんだ?的に)、今は慎重に自分をモニターしないといけないなと思っているところ。

 


2年ぶり?に、スペースまほろばの中野さんとセッションをさせてもらった。
この方は以前、私がほんとうに死を選びそうになったとき、なにも言わずそばにいて共に時を耐えてくださった方。私のなかで、絶大な信頼感がある。

 

十数年にわたり定期的な対話を繰り返してきたのに、なぜかこの2年お話しすることが叶わなかった。でも昨日、お互いの間でその訳がわかった気がした。

 


苦しい苦しいと思って過ごしていたけれど、以前中野さんがそばにいてくれてようやくくぐり抜けられた経験とは全然違って、ほんとうは優しくて豊かなプロセスだったと気付いた。前は怖いくらい孤独で、消えてしまいたかった。自分がボロ雑巾のように思えて、なんの価値もないように感じていた。この世にいる資格がないんじゃなかいと。

 

でも今回の体験は、もっとこんなふうな体験がしたいなあ!という欲張りな願いが叶ったもののようだった。それでもエゴが刺激されて痛むので、死ぬほど苦しいような気がする。でもこれも、気がするだけで別に?って感じ。 

 

かさぶたが剥がれるとそりゃあしばらく痛いけど、そんなことで人は死んだりはしない。でも「死んじゃう!!」と騒ぐことも自由だから、そうしたければやっていい。これまたそばにいる人には甚だ迷惑なのだが、そういう体験も許されていい。

 

 

マスターマリコが「魂的には万事OK」といつも通訳してくれていたのも、マスターのおともだちアイちゃんが「Yes! 充分です」と伝えてくれたのも、今のこの経験が、実のところ存在の奥底から自分が望んでいたものであることを教えてくれる。

 

思えば苦しい苦しいと思っていたときも、必ず誰かがそばにいて慰めてくれたり助け起こしてくれた。エイドステーションと有能なスタッフが完璧に調えられたコースで、安全なトレーニングをしていたようにも思える。

 

必要なことは適宜適切に必ず起こる。避けることはできない。信頼していればよい。でも疑って泣いてもいい。あるがままでよい。

いつも絶対者の仕事は緻密にして完璧とか書いていながら、うっかり記憶喪失になったように忘れてしまっていた。ダメやん。

 

エゴイスティックな顕在意識の「こうなったらいいな〜」的な軽い願いなんてぶっ飛ばされるような、「そうなんです、ほんとうはこういうことがやりたかったんです」と土下座して絶対者に謝るような、そういう体験だった気がするのだが、妄想だろうか?

 

 

そばにいて猛烈に振り回された関係者の方がこれを読むことはないかもしれないが、気付きと共に次元(ステイト?)が変化したらしい私に、寛大な心で今後も接してくださることを祈る。

 

ありがとう、いつも助けてくれて。

 

 

 

 

№821 癒しの場所

軽井沢から帰ってきました。24時間ほどの滞在でしたが、最高の体験でした。

 

連日雨続きだったそうなのですが、私が伺った時は抜けるような青空でした。晴れ男だった健太郎にいちゃんの霊力?を譲り受けたのか、近頃はあまり雨に降られることがありません。ホストの方に「龍神さんついてるでしょ」と言われてましたが、もしそうだとするとなかなか面白そうです。

 

とにかく素晴らしい天気に恵まれて、素晴らしい景色を堪能しながら、何もしないという贅沢な時間を満喫させてもらいました。

 


ここのところ私は、愛についていろいろと考えているところなので、機会があればいろんな方に尋ねて回っています。

 

その結果気づいたのは実にシンプルなことで、しあわせな人はしあわせな愛を語り、イマイチそうではなさそうな人は全然しあわせじゃなさそうな愛について語る(ということはそれはたぶん愛ではない)、ということでした。

 

 

しあわせな愛について語ってくれた人は、誰であれ人の行為行動を決して批判しませんでした。「いろいろあるわよ〜」と、心の底から「そら生きとればいろいろあるわな」と思っている顔で語るのでした。

 

さらには、時代や制度を超えた普遍的な価値観に基づいて話をしてくれました。たかだかどこかの国家がしばらく前に決めたようなものを盾にして、人を縛ったり責めたりするようなことを決して言いませんでした。

 

要するに、視点が近視眼的ではありませんでした。それこそ龍が悠々と空高く飛びながら、地上の有り様を「楽しそうやねえ」と思って見ているような、長いスパンで物事を鷹揚に構えて待つ、堂々たる姿勢があるように見受けられました。

 

 


昨夜、軽井沢で、なぜかわかりませんが大号泣してしまいました。今日は午後から大事な人とお話しする機会があったのですが、目が腫れてしまって恥ずかしい思いをするほどの涙でした。

 

そこは最高の場所で、最高の空間です。ここにくると人は解放されると聞いていましたが、その通りになりました。渦巻いた感情が迸って涙になって溢れ出し、自分の中の塵が流れて洗われたように感じました。

 

 

Yoga Vasishthaにも、幾度も繰り返す生の物語がいくつも語られています。あたかも人が一夜の夢でさまざまな人生を生きるが如く、実際の人間の生も、この一度きりの体験にしがみつくようなことは不要であると教えてくれています。ただそこから何かを気づきなさいと。

 

ここではない別の場所、別の時代に生きたとしても、その価値が常に変わらない大切なものはそんなに数多くはありません。

 

尊いなにかと自分が別ものであるということも、言っていません。小さな自己(自我)と大きな自己はひとつであって、決して別れることもなければ、そもそも初めから一度も別れていなかったことを思い出すようにと促してくれます。

 

自他を巻き込んだしあわせを追求すること。人を尊重しながら、自分を疎かにしないこと。自らを大事にすることと、人を大切にすることの重みに差はないのだから、誰かを大事にしたければ自分のことも尊重しなければならない。

 

時代や状況やその他諸々の瑣末なことに心を煩わされず、最も大切なものを信じ、見続けられるかどうか? それを私は今、問われていると感じます。

 

「コミュニケーションは一切を包み込むものであり、それが再確立する平安のなかで、愛は自ずと訪れる。」ACIM 15章7節

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

№820 愛なのかどうか

はくたか、という新幹線に乗っています。
これから人生初軽井沢上陸です。

小学生のときからなぜかわからないけれど、上皇后美智子さまが大好きで、私のゴールデンシャドウだったなあと思います。どの部分がどんな風にシャドウなのか、改めて考えてみたいです。

軽井沢=テニスコート美智子さま

という連想ゲームがこころのなかで勝手に行われて(昭和だなぁ!)、ドキドキしているところなのですが、このドキドキしちゃうことが我が心の底にナニカアルなって感じですね。



人間が目で見て妄想するものなんて、あれもこれも投影に過ぎないのでしょうが、そうなのであればこそ、できるだけ尊いもの、美しいものを投影できるようにしたいものです。

そうでなければ、投影なんてしちめんどくさいことはしないで、ありのまま目覚めて生きたいです。


かの人がなにゆえそんなに「すごいなぁ」と子供心に思えたかというと、文句を言わず我が人生にコミットメントして生きていると見えたからではないかと。

まわりのおとなって愚痴や文句ばっかやな~、と感じていたのです。かくいう私も肉体だけは成長した「おとな」と言われている今、勘違いをして文句を云っては絶対者による愛の指導を受けるということを、懲りもせず繰り返しています。



愛ってなんなん?

という問いをもったとき、ひとつのこたえとして、yogaでは「愛の三角形」ということを教えています。

Bhakti yogaは、神に対する愛に生きる信仰の道です。その教えのなかで、愛ってこういうものだよ、この要素を押さえられてないのならば、愛のように見えるニセモノだよということを語っています。

曰く、

愛は無条件であること
比較しないこと
怖れをもたないこと


よし、この人を愛そうとこころに決めたら、決して揺らがない。まわりの雑音に耳を貸さない。こころが揺れることがあったとしても(人間だから必ずあるはず)、怖れを手放すことを選択し続ける。

子供の私には、そういうことをしておられるように、美智子さまのことが見えたのかなーと思ったりします。


それがゴールデンシャドウだとするならば、自分という者の奥底に、ずっと昔からBhakti yogaが教える愛のあるべき姿が刻み込まれていたのかなと思うのは、希望的妄想でしょうか。それともここに来るずっと前に、いつかどこかで知っていたことを、うっすら覚えているのでしょうか。



私の近くに、愛の三角形のことを(bhakti yogaのことを)全然知らないのに、これとまったく同じことを語ってくれる人がいて、そこに生きようとされています。

アホな私はその価値と素晴らしさに気付けていなかったのてすが、昨日の夜、ウィル・スミスの「七つの贈り物」という映画を見ているとき、ようやく愛の三角形のことを思い出して(それまで忘れていたわけです)、

ああー!!!

と、改めてその方の言葉の素晴らしさに気付かされました。ありがとう、ウィル・スミス。

またこの方とお話ができればいいなと思いましたし、私も三角形を充たす愛というものを真剣に考えて、できうるならばそこに生きてみたいと思ったのです。

かなりの修行が必要な気がしますが、せっかく人として生まれてきたからには、諦めず取り組み続けたいと思います。

№819 過去をずっと

マスターまりこから伺った名言に関して、さっそくお問合せをくださった読者がおられました。

 

あ(阿)!といったら即座にうーん(吽)と返ってくるような反応に、こりすのハートはぶるぶるふるえちゃいましたね。

 

なのでいくつか頂いた名言のうちの一つを、今日ご披露します。

 

ズバリ、「過去はずっと持っていたら腐る」。

 

実をいうと、これはマスターがある方(その世界での超有名人)から伺った名言だそうなので、正確にいうとマスターが衝撃を受けた名言です。

 


このお言葉、ほんとうにショックでした。

なぜかというと、Yogaの世界で、今の自分がなぜこうなのかを理解するために過去の自分の振る舞いを検証するべし、と教わってきたからです。言わば、過去を「素材」として活用するわけです。

 

しかしこの素材=過去の記憶を、今、思い出せるということは、自分にとっては今現在のリアルタイムな事象です。ということは、ずっと後生大事に持っていた腐った記憶ということになります。

 

 

聖典の教えを学んだら、その教えに即して過去の自分がいかにバカだった(無智だった)かを詳細に振り返り、客観的に検証します。言語化してレポートにし、複数の師に読んでもらいます。慣れない頃はこれが猛烈に恥ずかしかったものですが、人間なんにでも慣れるものです。3年間の課程受講中、お昼にみんな一緒にカレーを食べながら、自分のバカさ加減を披露しあいました。

 


こういうことをやっていると都合のいいことに、だんだん自分がバカであることが人間がこの世に存在することの所与の条件のようにも思えてきて、「しょうがねえなあ、ははは」という脱力感に満ちた笑いが出ます。

 

過去の自分もそんなもんなのですから、今の自分だって知れたもんです。
それなのに人は、いや私は、大いに勘違いをし、なんだかイケてるような気になってブイブイ言わせたくなります。

 


絶対者のお仕事は緻密にして完璧ですから、こういう調子に乗った自分に対して愛の鉄槌をしっかりくらわしてくれます。くらわすって九州弁ですね。要するに、教え導いてくれるということです。絶対者の仕事に対して、人は決してNOが言えません。

 

ずっと持っていたら腐るという過去ですが、振り返ると人生そんなことの繰り返しばっかりで全然成長してなかった、ということをはっきり教えてくれます。その点はすごくシンプルで、いいじゃないの!と感じます。

 

どんなものも使いようですので、腐らない類の使い方をしさえすればいいのだと思いますが、もうちょっと先に進んで超シンプルな解決策を求めるとすれば、

 

もう、考えるのやめとき

 

ということかもしれません。雑念を捨て、今この瞬間に集中せよ!

 

しかし、うんと長いことYogaの世界にご縁を頂いていながら、このことがやり抜けない領域に順次直面させられ、その都度翻弄されます。言い訳ですけどね…

 

 

心弱い者は、刺激を受ける領域から走って逃げてよし、少し離れたところで心の平安を図るべしと、Yogaは優しく言ってくれます。ほんとうはそこからまた打って出て、傷つき逃げ帰り、泣きながら平安を求め、涙が止まったら畏れつつ打って出てまた泣く、ということの繰り返しが、人が生きるということなのかもしれません。

 

そういう勇気が持てるといいと思います。人に助けを求めるしかない時もあります。自分ひとりで悩まないことは大事ですが、ひとりでじっと悩み苦しむことも大事な経験なのでしょう。

 

 

苦しみに晒されたとき、智慧しか救ってくれないということは知っているつもりです。自分という卑小な者の、人としての器を少しでも大きくすることこそが救いだということも知ってはいます。この器がほんの少し大きくなるとき、耐え難いほど痛むということもわかります。

 

私は世界と一体でありながら、同時に孤独です。

 

ひとりここに立って、圧倒的な孤独の裡に涙しながら、こんな自分がいったい誰の役に立てるのだろうかと悩みます。卑小な自我のなかに繰り返し想起する腐った記憶を超え、自らを人のために明け渡せる日は、いつかくるのでしょうか。

 

 

 

 

 

№818 食べない時間

断食のはなしです。
が、その前にいつもの無駄話ね。

 

今日ね、レイキマスターにレイキさせてもらいました。

ちょっとトラブルがあって首が痛むとのことでしたので、駆けつけて?施術?させて頂いたのです。いやー、マスターにレイキさせてもらえるなんて実に光栄でした。

 

少しはお役に立てたのか、痛みが軽減したとのことでしたので、快気祝いに一杯やりに行きました。もちろん一杯ではすみませんでしたが。

 

そこでいくつかの名言を頂戴しまして、本日はそのことについて書こうと思ったのですが、同席していた若いお嬢さんから「断食ネタにしておきなさい」と言われてしまいましたので、名言についてはまたいずれ別の機会にご披露させて頂きたいと思います。消化不良な話で実にすみません。気になってしょうがない人は直接お問合せください。

 


そう、断食。

あなたの肉体を健やかに保つために必要な食事の着意点を、最低限あげてみてくれ!と頼まれたら、私ならこう言います。

 

1、喫食時間をコントロールせよ
2、間食はやめておくべし
3、良質な油脂に投資せよ


断食24時間の話を前回書いたので、「無理〜」というエネルギーをビシバシ感じるのですが、いきなりそんなことはしなくていいのです。というか多分できません、ホルモン調整的に。

 

「1、喫食時間のコントロール」ができるようになれば、時々24時間食べずにいることも、いずれなんとなくできる日がやってきます。なぜならばこの1の着意点を守っていれば、いずれ必ずインスリン値が安定するからです。

 

お腹がすいたりなんだりというのは、意志の問題ではありません。こういう命に直結していることは、からだの中の精巧なメカニズムによって厳密に調整されています。我慢してなんとかなるレベルの話ではないのです。

 

なのでまず健康な食事習慣を確立するために、体重や脂肪蓄積に関わる働きを整える必要があります。

 

 

ではどうしたら?

 

1日24時間のうち、18時間の絶食時間を設けます。こういう方法を「間欠的断食」といいます。断食にも色々やりようはあるわけですが、三日に一回24時間断食するよりも導入しやすい現実的選択だと思っています。

 

具体的には、18時間の絶食時間の中に睡眠時間を含むと実践がより容易になるので、昼食の「頂きます」から夕食の「ご馳走様でした」までを6時間以内に制限します。

 

例えばちょい遅めのランチを14時に食べ始めて、晩御飯は20時までに終えるわけです。その代わり、この時間内ならなんでも自由に食べていいことにします。アルコールも可。

 

成人の減量には、最低でも12時間の絶食時間が必要と言われています。

ここから更に、インスリン値を正常化させ、内臓脂肪を減らし、糖尿病などの生活習慣病のリスクを回避し、血管内壁にこびりついた未消化物を取り去るためには、18時間くらい食事を摂らずとも長期的な健康効果の面で大きなメリットを得られますから、それは食事の喜びよりも大きいはずです。

 

しかもタダ。むしろ食費が減ります。って、そんなことはあまり気にならないかな?

 

断食はYogaと同じく、歴史的に検証されてきた安全な健康法です。もちろんやり方によっては、という注意点はありますが、ノウハウもかなり蓄積されています。

 

何より頭がスッキリします。
本当は断食って、YogaやPranayama(調気法)と同じで、肉体のための実践じゃありません。ぜひ試してみて欲しいと思います。

 

ちなみに私は、道場に行ったり酵素ジュースを買ったりする必要はないという意見です。むしろそんなことはしない方がベストであるという立ち位置。

 

基本的には、人間には自分で自分の命を守る規制がちゃんと備わっていますので、危険なレベルまで自ら食を断つなんてほとんどの人はできないし、むしろ我慢できなくて苦しむくらいなのですから。

 

ただし当然ながら、現在治療中の病気がある方は、断食の効果についてよく学んでいる心ある医師と相談の上、安全に留意して行ってください。

 

ちなみに日本には「東北大学方式断食療法」というものもあります。人が悟り(もしくはそれに類する気づき)を得るのは、断食中ではなく復食期間中である、というお話をかつて伺ったことがありますが、実に印象的でした。お釈迦さまもそうだったもんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

№817 ご飯食べてないです

ここのところ呼吸について散々書いてきたので、次は食について書いてみようかなと思います。

 

ダイエットに悩んでいる人はとても多いように見えるのですが、その対策は混乱していてほとんどの情報には効果がないか、活用法が曖昧。ズバッ!と教えてほしいよね。

 

 

昨日、健診に行ったんですよ。フツーの健診。

美容院等々に出かけた後「あ、そうだ、健診行こっかな」と思い立って行きました。15時前だった。

 

受付で「健診してください」と告げると、受付嬢(年齢高め)が「え?!」という顔をした。

「食事してたらできないんですけど」というから、「はい、してません」と応えました。だって食べてないから。するとまた「え?!」という顔をされます。朝食?昼食?と訊いてくるので「どっちも食べてないです」と応えたら、また「え?!」っていう顔。

 

いったいなんやねん〜

と思いながら椅子にかけて待っていたら、今度は看護婦さんが現れて「夕食は何時に食べたの?」と訊く。前夜は夜のレッスン後に軽くつまみながらビールを飲んだので、ご馳走様をしたのが22時頃だったような。その旨告げると「そうなんだ」と言って去っていきました。

 

その後、処置室に入って体重を測ったのだけれど、やっぱり「ねえ、おなかすかないの?」と、どこまでも食事ネタで追求されます。「すきませんね」と応えたけど、「ウッソまじで?!」という反応。メタボチェックのためにハラを出して見せたら、いいな〜って言われたんだけど、それを聴いて思った。

 

だめよ、あなた。飽食の現代に生きる人が、1日3食とか食べとったら。マジで。

 

 

腐ってもYoga&Ayurvedaを学んできて、これが飯のネタになっている私。ファスティングなんてソフトで耳あたりのいい表現は使わない。はっきり断食と言おうではありませんか。

 

痩せたい、血糖値下げたい、体重減らして健康度を上げたいと思っているのであれば、1日の喫食時間を短くしましょう。惰性や習慣で食事を摂るのはやめましょう。食事の間におやつを食べるのは断固としてやめて、食後のデザートだけにしましょう。

 

そんなん無理〜!と思ったあなた。あなたはもしかして既にインスリン抵抗性があるのかもしれません。これは糖尿病予備軍といわれる状態です。糖尿病を舐めてかかってはいけません!

 

西洋医学的偏見とは違い、糖尿病は治らない病気でも治せない病気でもありません。重大な合併症が出ていなければ、いつからでも引き返せます。なるべく早めにUターンして欲しい。

 

24時間の断食がとりあえずなんとかできるのであれば、インスリンの異常はないらしいです。まずはそこを目指して頂きたい。

 

ちなみに私は3〜14日の断食を試して多幸感を味わってみたかったのですが、BMI的に1.5日が限界みたいです。皮下脂肪を減らしすぎると病気に対する抵抗力が下がってしまうので、減らすのは内臓脂肪だけじゃないといけない。


超!健康アスリートだと思っていた愛する弟分が体調を崩しているんだけど、きっとこれはカラダをしぼり過ぎちゃっていたからなんだと思う。とっても心配です。

 

 

明日は、断食の手前に位置する絶食=喫食時間の管理について、もう少し詳しく書くね。

 

 

 

 

 

 

 

№816 万事順調

完全休養日をとったため、仕込みが間に合わずサボりました。ごめんね! 

 

毎日暑いねえ。

我が家の猫たちは液体になりかかって、部屋の中の極力涼しいのであろうところに横たわっています。「そうかそこは涼しいのか!」と思って寄っていって一緒に横になると、実に不満そうな顔をして別の場所に移動していくのはなんなんだろうね?!テレ隠しかな?

 


さて、Yogaの戒律(おすすめ事項)のなかには「聖典読誦」っていうのがあって、こう書かれると何やら小難しい感じだけど、単に自分を力づけて真理に近づけてくれる本を読むと助けになるよ、ということです。

 

なので私の枕元にはいつも、数冊の本が積んであります。

時々新しい本が混じることもあるけれど、スタンダードなのは「奇跡のコース」。これは複数の日本語訳と原著で読んでいます。

 

「ヨーガ・バシシュタ」やギーターなど、THE!ヨーガの聖典ももちろん。他にはマイスターエックハルトの本など。

 

 

生きていると外界からいろんな刺激がやってきて、私を圧倒して傷つけるような気がしてしまいます。でもそれは完全に妄想で、すべては自分の中で起こっていて、自分の内的世界を外の世界に投影して見てるのだそうです。

 

それはあたかもテレビみたいなものなんだと思います。そこに映し出される映像やチャンネルの大元も、実は自分。なので私はすべての物事のありように責任があると同時に、あらゆるものを良くしていくことができるパワーを預かってきているらしい。

 

これが根本の思想、真理です。
という節を、私は完全に採用して生きています。

 

はずなんだけど!

時々迷子になって、起きた物事に文句をいって泣いたり喚いたりしてる。こういう状態は気が狂ってるともいえるし、本来の自分を見失っているともいえます。

 

聖典とそれに類する文章に触れ続けることは、気を失う率を減らすことや、狂った状態からリカバーするのを少し早めて助けてくれている気がするのです。

 


レイキマスターが帰国されているので、時折話をさせてもらうことができます。順調に頭がおかしくなってドツボにハマっている時に、マスターと再会して泣きつくのだけれど「うん、すべて順調だね!」と言われてしまいました。

 

えー、こんなにしんどいのに順調ですか?!と驚くのだけれど、万事想定通りで順調なんだそうです。魂的にはね。

 

だから今なんだか色々上手くいかないな、しんどいなと思っている人も、大いなるものは私を通じて豊かな体験を求めているのであって、この役割は他の誰にも変わってあげることはできないんだから、しょうがないもうちょっと頑張ってみるか、と思ってもらえたらいいな。

 

でもひとりで「うん、大丈夫だ!」と思い続けることはあまりに悲壮でできないことになっているので、助けを求めることです。この時「誰に?どんなふうに?」とかあんまり考えないで、手当たり次第「助けて〜」って言ったらいいです。ちゃんとその役目を持ってる人にサインは届いて、キャッチアップしてくれます。

 

私でよかったらいつでも聴きます。Yoga教室ってそういうところです。
そこで役に立てるために、私も毎日自分の生を必死に生きます。


みんなで頑張ろう!レッツエンジョイ!