蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

No.726 トーマスくんのトースト

雨といふごくやはらかき弾丸がわが心象を貫きにけり   筒井宏之

 

 

 

7月27日

私には尊敬する人物が数名いる。生きてる人と、この世ではないところに存在しているひと(どこがほんとのこの世かという議論は今はしないでおこう)。会える人と会えない人がいる。私がこの世にいると知ってくれている人と、私のことなんて知らない人がいる。

今日はそのなかの、私のことなんて知りもしない人だけれども、まだちゃんとこの世界に生きている人について。


先日某所で美味しいギネスビールを飲み、ふらふら~と酔っ払って宿のそばまで戻った後、お約束の成城石井に行った。そうするとギネス飲み過ぎの私の存在に語りかけてくる何かがある(妄想)。振りかえるとそこにエシレバター無塩(小)がいた。「私、高いけど、この小さなサイズだとたかだか800円程度よ。如何?」とテレパシーで伝えてくる。このバターは、木次乳業のバターと比してどう違うのであろうか?知りたい。

バター好きな私。Ayurvedaを勉強していると、バターがとても大事なものに思えてくる。なんといってもSattva(善性優位)な食べ物の代表・牛乳を精製したものであるし。バターを更に精製してギーを作る(トラをぐるぐる回して作る方法もあるようだが)。最近は品質のいいバターがいっぱいだから「もったいなくてギーになんてできんよ」と思う。いかなバター好きの私とはいえ、バターだけぺろぺろ舐めるわけにはいかない。うちの猫じゃあるまいし。なのでバターを食すためにはパンが必要である。

そのためのパンを求めにわざわざ品川まで行った。ある方が美味しいよと教えてくれたお店でパンを買うため。でもパンを眺めていたら思った。ホテルでパン焼けないよ?

Ayurvedaでは「パンは焼いてから食べないとダメよ」と教える。パンってね、焼いてあるから乾燥してるでしょ。そのパンをちゃんと温め直して(再加熱して)それから油分を添加して食べないと、身体のなかが乾燥してしまう(Vataが増す)ってことだったはずだ。しかしパンをレンジでチンなんてしたくない。だからその時は諦めて手ぶらで帰ろうとしたが、うっかり本屋に寄って米原万里の本を買ってしまった。「旅行者の朝食」って本です。

それで、尊敬してる人のことね。
人間で生きてるのがつらいから、人間を休んでヤギになっちゃった男がいた。イギリス人のトーマスくん。大学院まで行ってアートを探究した芸術家である。私はこのトーマスくんを尊敬している。トーマスくんがこの世にその存在を知らしめたのは、自分で一からトースターを作るというプロジェクトによってである。なんと鉄鉱石を精錬するところから始めちゃったんだよ?しかも電子レンジでだよ?!ほんとにすごいよね。

で、今この「トースタープロジェクト」についての本を読んでるんだけど、こんなの読んでたら、パンは食パンでなくてはならぬ、当然トーストされていなければならぬ、という気分になる。今、どうひっくり返ってもトーストをできる環境にない私。なのにさっき成城石井でエシレバター買っちゃったよ。あーあ、やらかしちゃった。米子に帰るときどうするのかな。それとも節を曲げてトーストしていないクルミパンとかに塗っちゃうか?!

 

 

No.725 うなぎパンとうなぎクリーム

わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒   笹井宏之

 

 

 

7月26日

先日長女ぶーちーと東急ストアで待ち合わせしていたとき、パンコーナーに驚きのパンを発見した。「うなぎパン」である。

その「うなぎパン」なるものを目にした瞬間、私は脳天に雷が落ちたような衝撃を受けた(こういうことはよくある)。妄想力が半端ないと悪評高い私であるゆえ、誰かのあたまの中にあるとき想像上の生き物として生まれ出たうなぎパンが、実際にここに受肉して、っていうか、パンだから受パンして、真実存在していることの凄さに打たれシビれたのだった。

妄想 of ツボイ:
2021年7月の土用の丑の日に因んで、何か良いアイデアを募集しまーす!という問いかけに対し「今年はうなぎパンではどうでしょうか?!」という発案があった。「いいじゃない、うなぎパン!早速いってみよう!」ということでオリンピックが始まるとかいう日に店頭に現れたうなぎパンくんたち。ところがうなぎパン成形技術(=イメージとしてのうなぎに対する受パン能力)には人により大幅なムラがあったのだ!なんたることであろうか! ズバリうなぎでしょうというものあり、これはオオサンショウウオか?と思わせるものあり、はたまた太めのドジョウのようなものまでありで、東急ストア五反田店のパンコーナーはカオス状態となった。このうなぎパンくんたちの売り上げや如何に?!

 

と、いうことで私はその場でもっとも「うなぎらしい」と判断した一匹を連れて帰り、死なないように一晩養って翌日秘境田端まで運び、聖地田端の若手ホープOくんにプレゼントした。「これ、中身はうなぎクリームだから」とか言って(知らないくせに)。ただ、山手線で30数分フラフラしているうちにうなぎらしい腰のくびれの部分がちょん切れてしまっていた。ごめん。

JK剣士にこのうなぎパンの写真を送ったら、中身は何?と当然ながら尋ねられたので、これもまた知らないくせに「うなぎクリーム」と答えたら「うー、泣けるな」と返された。感無量ということであろう。

翌日若手ホープOくんに「うなぎクリームどうだった」と訊くと、「クリームでした」とハッキリ言われた。なーんだ東急ストア、もう一踏ん張りだな。来年は「浜名湖産マジもんうなぎ配合うなぎパン」で、ずらり並んだ「お土産にどうぞ!十匹入り」という箱入りうなぎパンを発売して欲しい。そしたら今度はそれをOくんにプレゼントして「土用の丑の日に十匹うなぎパン食べると運気がめっちゃ上がるんだよ」と言ってあげたい。

と、こんな馬鹿馬鹿しい事を嬉々として書いていると、O先生から「かよちゃん、ほんとに妄想力すごいよね」とお褒めにあずかれる気がする。え、褒めてない?まさか!

 

No.724 仕切り直し

愛としかいいようのないものをこぼし夢の川原を去ってゆく鹿   笹井宏之

 

 

 

7月25日
昨日は16時半頃から池袋で食事。お店は大繁盛。エアコンの風が直撃する席で体が冷えてしまい2時間もせずに退散したが、店から駅までの道にはおまわりさんどころか機動隊員まで出張って物々しい。オリンピックのため?

テレビもつけない、ラジオも聞かない、ここしばらくはSNSも見ていない。だからオリンピックの情報なんてまったく手にしていない。そんな毎日で、ずっとこれまで教わってきたことなどを繰り返し考えて「なるほど」と改めて思ったりしている。

Yogaは、天がインドを通じて人類に与えられた叡智である、ということを、インドの人たちは真剣に捉えている。この言葉を、私はモディ首相のスピーチで聞いたのだったか、インド大使から合格賞を授与されたときに聞いたのか忘れてしまったが、とにかく、この叡智を勝手にいじくり回し、自分の名前を付与したりなんかして「なんとかヨガ」みたいに言うのは愚の骨頂であって、そういう恥ずかしいことは絶対にするものではないと師匠から言われてきたし、それは守り抜くつもりだ。YogaはYogaであってそれ以上でも以下でもないし、長い歴史で生き延び洗練されてきたものを読み解いて存分に活用する努力こそが求められている。そもそもぜんぜん活用しきれてないもんね、ほんと。情けないくらい。

 

秘境であり、ある意味聖地である田端での三日間の仕事を終え、渋谷で軽く一杯やって帰ってきた。昨日池袋で飲んだギネスビールがあまりにもビミョーだったから、ギネスの仕切り直しである。ちゃんと入れられたギネスビールって、クリーミーでほんとに美味しい。このもったりしたクリーミーさって何かに似ている。でも言わないでおく。ふふふ。

 

 

 

No.723 お師匠さま、来た?

いくとせも鏡のなかを歩みゐる我とけふまた目を合はせけり   筒井宏之

 

 

7月24日
秘境にて朝からリアルセッション。協働で指導に当たっているクライエントさんで、もうお一方の先生(Yogaではないご専門)から「ぜひこのタイミングで立位のポーズを」とのご指示があった。なのでトリコナーサナなどいくつかの立位ポーズを含んで1時間ほどのセッションを行った。キツめだったとの感想だが、この秋で実習を始めて1年になる。はじめた頃には立位のポーズなどとてもじゃないが危なくてさせられなかった。随分変化されたので私たちもとてもうれしい。「甲斐があった」という気持ち。
ちなみに主訴は腰痛でらしたが、今、症状はまったくない。

最後に瞑想をしていたら、そういえば今日は慧心先生が何処かでグルプージャをしておられるなと思い、瞑想後の雑談でそのことについてお話していたら涙が出てきてしまった。お師匠さま方が、今ここに降りてきて下さったかのような気持ちになって。

アグニホトラという護摩焚きの原型のような儀式を行い、歴代の師に対して感謝を捧げる。
人から人へと繋がれてきたYoga。誰か一人が欠けても、今こうしてわたしがYogaをすることは叶わなかったかもしれないと思うとなんだかとても有難い。そしてこうして目の前に生徒さんがいてくださるというしあわせ。涙も出ようものではないか。



昨夜は巣鴨の怪しい居酒屋でビールを飲んだ。こんなときだから闇営業というべきだろうが、お客さんはいっぱい!でもナンチャッテな居酒屋だから、食事したなあという感じには残念ながらならなかった(ポテトフライメガ盛りとかね)。なので今日はお昼にちゃんとした定食が食べたくなって、聖地田端最寄り駅にある通称「社食」でかれいの煮付け定食アジフライ付きを頂いた。おなかいっぱい。

あれ?そういえばオリンピックってやってるの?

 

No.722 須賀子というひと

とれたての真珠のやうに子どもらが夏の手前でひかつてゐます   筒井宏之

 

 

 

7月23日
昨夜、長女ぶーちーからSOSが来た。祝日のため二日連続で寮の食堂がお休み、だからごはんを食べさせてくれという。夕方の授業終了後に東急ストアで待ち合わせて、お惣菜とビール(水曜日のネコと銀河高原)を買って部屋へ戻った。

あれこれおしゃべりをしながら飲んで食べ、途中おやつを買いに成城石井に行ってくれて、お約束の杏仁豆腐とぶーちーお気に入りのチーズケーキを仲良く食べた。その後しばらく昼寝?をしてぶーちーは帰っていった。期末でレポートやら何やらでずいぶん忙しそうだったが、頑張っているようでいつもながら感心しきりである。

 

 

昨日は一日ぼんやりゆっくりするつもりだった。先にレポート用紙を購入するために書店に行ったらついふらふら~と岩波現代文庫の棚に吸い寄せられてしまい、そこで寂聴先生の「遠き声」と出会ってしまった。大逆事件で絞首刑となった菅野須賀子の評伝小説である。恋と革命に生きた女性の激しい物語に圧倒され、夜中までかかって読了した。

折り合いの悪い継母の策略で16歳の時にレイプされ、実家から逃げるように17歳で嫁ぐも夫は義母と関係していた。30代という早すぎる晩年に幸徳秋水と愛し合い、毒婦や妖婦と呼ばれた須賀子。大逆事件はあまりにも酷すぎる事件だから気にはなっていたけれど、こんな小説があることは知らなかった。
須賀子に夢中になった1日だった。

No.721 肺と哀しみ

花束をかかえるように猫を抱くいくさではないものの喩えに   筒井宏之

 

 

 

7月22日

今朝、胃の痛みで目が覚めた。その痛みに意識を向けると夢は飛び去っていってしまって、記録できなくなってしまった。

この胃の痛みは今月初めにも経験したもので、自分としては胃が痛いと「感じ」、ものを飲み込むとき、たとえそれが水であっても、喉元で何かの塊がつかえる苦しい感覚がある。体質的に脾(胃や膵臓)が「虚」しやすいとのことなので、ああ、また胃の症状か、と思っていたのにこれが違うらしい。

漢方的世界観から見つめる自分の内臓は、多様な気づきを与えてくれて実に興味深い。
「胃が痛い」という体感はすべて同じものに思えるのに、からだの受け止めようが以前とは違ってきている。これは内臓と感情が関連しているからで、人の性格などうまくすると簡単に変化してしまうから、症状の因となるものも変わっていくということだろう。

 

ちなみに今回の胃の痛みは「肺」からきているとのこと。なので肺のあたりに刺した鍼からは出血し(通常は出血しない)、その痕が青痣になってしまっている。症状が重いところに施された治療はこんな風に痕が残り、自分に対する説得力を持つ。

肺は「悲」に対応している。しょんぼりすると肺が弱るらしい。

最近めっきり腹が立たなくなった。以前は怒ってばっかりだったのに、この1年ほどは哀しくなることが多い。なので鍼治療の時のポイントも変化してきているし、体質だと思っていたものも変わってしまっている。

 

この世に人として生きていて、Yogaが必要でない人はいない、と慧心師が仰る。
ここでの”Yoga”という言葉が意味するところは、いつもと同じく体操(Asana)ではないのでお間違えないようにして欲しい。

生きていれば毎日降り積もっていく印象を、毎日掃除していかなければ過去のことなんて扱えない。無駄に考えず、思考停止の方がマシ。妄想で容易に変化する呼吸を鎮めつつ、心のどぶさらいを続けていくと「自己と自我の区別」がつくようになる。

見るものと見られるものの混同から解放されること。
それが識別智=ヴィヴェーカキャーティ(Vivekakhyāti)ってこと。

 

 

 

विवेकख्यातिरविप्लवा हानोपायः॥२६॥

Vivekakhyātiraviplavā hānopāyaḥ||26||

揺るがない識別知が、除去する手段である。(Yoga Sutra 2-26)

 

 

No.720 うたと詩

静かなる庭に足音響きいて月かもしれぬ 鬼かもしれぬ   筒井宏之

 

 

 

7月21日

思考停止になると詩歌が読みたくなる。
昨年の今頃、非常に印象的な体験をして思考停止になった。そのときから現代短歌にハマってきたが、今年はなんとなく詩の方がしっくりくる感じで谷川俊太郎の詩集を読み返している。

 

現代短歌に興味を持ったのは20代半ば。まずは与謝野晶子の伝記を読み、こんな鮮やかな生き方をした女がいたのかと驚いた。現代社会でも不倫は大騒ぎだが、あの当時あんな時代に若き晶子が恋した鉄管も既婚者だった。しかもその鉄幹を友人と取り合いまでし、堺から東京まで追いかけ飛んで行ってしまった。当時、非常に保守的な世界に生きていた私からすれば「なんてこったい!」と言いたくなる大事件である。このときから晶子の作品のいくつかを好んで愛唱するようになった。

「狂ひの子われに焔(ほのほ)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅」
「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」



子どものころ物心ついたときから安野光雅の大ファンだった私が、彼が挿絵を描いていた俵万智編著の短歌集を手に取ったのは何よりもまず絵が見たかったから。この本の挿画は版画風になっていて歌の句がそのまま描き込まれていた。それに与謝野晶子の影響で近代以降の短歌に興味を持てていたこともあったから。ちなみに小学生の頃、百人一首伊勢物語にハマったこともあった。見かけによらず文学少女だったのだ。

「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」 伊勢物語


俵万智が編んだこの本に紹介されている歌の多くには相当ハマった。俵万智の選は実に秀逸だ。

「あかあかとほほけて並ぶきつね花死んでしまえばそれっきりだよ」 山﨑方代
「美しき誤算のひとつわれのみが昂りて逢い重ねしことも」 岸上大作
「人間のいのちの奥のはづかしさ滲み来るかもよ君に対へば 」  新井洸

 


そして今年の今、すっかり谷川気分。教科書にも載っている彼の詩、

  人は愛するということ 
  あなたの手のぬくみ 
  いのちということ    「生きる」

もいいが、詩集「手紙」に収められている「あなた」でノックアウトされた。

  あなたは私の好きな人
  死ぬまで私はあなたが好きだろう  
  愛とちがって好きということには
  どんな誓いの言葉も要らないから   「あなた」


今日初めて出会った詩も良かった。谷川俊太郎はきっと、人を愛することに躊躇しない人なんだろう。やっぱりいい。

自分の中で言葉が生まれてこないとき、こうして詩歌に滋養される。これも間違いなく豊かなこと。



   地球には五十億もの人がいるというのに
   そこにあなたがいた ただひとり
   その日その瞬間 私の目の前に

   本当に出会った者には別れはこない
   あなたはまだそこにいる          「あなたはそこに」