蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

No.721 肺と哀しみ

花束をかかえるように猫を抱くいくさではないものの喩えに   筒井宏之

 

 

 

7月22日

今朝、胃の痛みで目が覚めた。その痛みに意識を向けると夢は飛び去っていってしまって、記録できなくなってしまった。

この胃の痛みは今月初めにも経験したもので、自分としては胃が痛いと「感じ」、ものを飲み込むとき、たとえそれが水であっても、喉元で何かの塊がつかえる苦しい感覚がある。体質的に脾(胃や膵臓)が「虚」しやすいとのことなので、ああ、また胃の症状か、と思っていたのにこれが違うらしい。

漢方的世界観から見つめる自分の内臓は、多様な気づきを与えてくれて実に興味深い。
「胃が痛い」という体感はすべて同じものに思えるのに、からだの受け止めようが以前とは違ってきている。これは内臓と感情が関連しているからで、人の性格などうまくすると簡単に変化してしまうから、症状の因となるものも変わっていくということだろう。

 

ちなみに今回の胃の痛みは「肺」からきているとのこと。なので肺のあたりに刺した鍼からは出血し(通常は出血しない)、その痕が青痣になってしまっている。症状が重いところに施された治療はこんな風に痕が残り、自分に対する説得力を持つ。

肺は「悲」に対応している。しょんぼりすると肺が弱るらしい。

最近めっきり腹が立たなくなった。以前は怒ってばっかりだったのに、この1年ほどは哀しくなることが多い。なので鍼治療の時のポイントも変化してきているし、体質だと思っていたものも変わってしまっている。

 

この世に人として生きていて、Yogaが必要でない人はいない、と慧心師が仰る。
ここでの”Yoga”という言葉が意味するところは、いつもと同じく体操(Asana)ではないのでお間違えないようにして欲しい。

生きていれば毎日降り積もっていく印象を、毎日掃除していかなければ過去のことなんて扱えない。無駄に考えず、思考停止の方がマシ。妄想で容易に変化する呼吸を鎮めつつ、心のどぶさらいを続けていくと「自己と自我の区別」がつくようになる。

見るものと見られるものの混同から解放されること。
それが識別智=ヴィヴェーカキャーティ(Vivekakhyāti)ってこと。

 

 

 

विवेकख्यातिरविप्लवा हानोपायः॥२६॥

Vivekakhyātiraviplavā hānopāyaḥ||26||

揺るがない識別知が、除去する手段である。(Yoga Sutra 2-26)