蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№464 痛いほど愛する

君がもうそこにはいないことだけを確かに告げて絵葉書が届く  松村正直

 

 

亡くなった人の訃報を聞いて連絡をしてくれるひとがいる。こちらから連絡を差し上げることも始めており、波紋が広がりつつある。本人ですら予感しなかったあまりに急な逝去であったことと、最期の数日を一緒に過ごせたことへの有難さが、改めて胸に迫る。

 

また会える、という確信があるからこそ次の地に向かっていける。
茶の湯の言葉で一期一会というものは有名だけれど、次はないかもしれないという思いで点て、飲むお茶はどんな味がするのだろうか。

あの日「また来るからね」と言って別れたとき、次に会えないことを考えなかった。1週間は大丈夫だとほんとうに信じて手を振った。多くのひとの死に触れている医療者ならば、その確信が甘えたものであることがわかったのだろうか。でももしそんなことを言われたとしても、あのときの私は信じなかっただろう。
「また会えるよ」という言葉が、わたしのなかで哀しいことばになった。

同時に、ひとと会えることが素晴らしいことだと、改めて思う。
一昨日、数年ぶりに先生や知人に会うことができたが、変わらずにお元気でおられて、実際に触れることのできる距離でお目にかかれるのはこの上なく嬉しいことだった。

 

ひとを思うのはときに苦しいことだけれど、苦しいくらいひとを思う経験はなかなかできないのかもしれない。若いころのエゴイスティックな恋愛ではなく、成熟した大人となった自分としてひとを大切に思うということは、とても大事なことであって、これは意識的に育てていく感情であり感覚であると考える。

 

これを愛と表現してしまっていいのかどうか私にはわからないけれども、次に会えないなんて考えたくもないひとたちの顔が浮かぶ。そういう存在が多ければいいとは思わない。
ひとは流れる波のようにも存在しているから、人生にも季節が生じ、生きて存在していながら二度と会わないひとたちもいる。


ヨーガでは、ひとは生きているかぎり成長すると考えている。その理由は、生きていることで経験が増え、出会う人が増えるからだという。もし隠者のように暮らして誰とも会わなかったら、経験も多彩なものとなり得ないだろうから、ヨーガの考えるゆるやかな成長も生じないかもしれない。

本を通じて、もうこの世では会えないひとと触れ合うのもいい。その体験にも波や季節があって、一時期惚れて狂うように読む本の著者と、私は確かに愛し合っていると思う。

 

生きていることは波のようだから、激しく上下に変動をしている。変動しない人生なんてないし、何かを学んだり体得したりすることで変動しない自分を目指してはいけない
右肩上がりや安定なんてそもそもないのだから、激しくうねる波として覚悟を決めて生きたい。痛いくらいひとを好きになって、胸が掻きむしられるような気持ちのなかで涙を流してもいい。

 

しばらく前までもうこのまま枯れて死んでもいいやと思っていたけれど、そんなことを考えるのはやめて、もう少し生きることに貪欲になってみよう。

 

 

 

№463 背を押されて

なんというドラマチックな夜だろう たった一つのことだけがある  辻井竜一

 

 

一昨日に東京入りし、肉体は骨になってしまったものの、たぶんそこここにいて私たちの話を聞いているであろうお兄ちゃんの写真に手を合わせた。奥様の悲哀は語り尽くせないだろうが、生きている者は、預かった命を使ってこの世界に居続ける役割を与えられている。そこから逃げることはできない。

だから今は毎日の雑務に心を寄せて、お心を保って欲しいと願っている。
ご主人様とお別れになった哀しみが痛まなくなる日は、たぶん来ない。その痛みを胸にお抱えになったまま生きることで、豊かになる人生があるはずだと信じている。


さて昨日、「”発達指向型”人材育成の可能性を探究する ~インテグラル理論・成人発達理論の視点から~」と題して、インテグラル理論の師・鈴木規夫先生と成人発達理論の師・加藤洋平先生お二人による、何とも贅沢な対談が行われた。加藤先生の久々の帰国に合わせて企画されたもの。

そしてこれまた非常に贅沢なことに、お許し頂いて配信の場に同席させて頂いたのだ。
規夫先生、ありがとうございます! 

リアル加藤先生にお目にかかるのは4年ぶり? 大変恐縮とは存じますが、加藤先生、なんだか変わられた。随分お楽に、そしてより自由になられたように感じた。
規夫師匠とのノリノリのライブは、「対談」という言葉では括れない、なんだかジャズセッションを聴いているような心持にさせられた。

発達なんて求めるな、目指すな

目の前の人のしあわせを求めろ

上下動することがいかに人間を成長させるか

内側のものをよろこびと共に表現することが、構造を揺るがすことにつながる

 

まあ、こんなことだけ書いてもこのセッションの素晴らしさは伝わらないのだけれども、おふたりとも発達というものがもたらす過酷さを重々ご承知になりながら、加藤先生は場合によってはそれを促す(背を押す)支援を為されているとのお言葉があった。

いつか必ず、ブログを書くように言ってくれたのは規夫師匠。
それを実際に始めるように強く動機づけして下さったのは、加藤先生。
初めは名前も出さずにおずおずとやっていたものを、明確に氏名を出して継続しているのも加藤先生のお力に負うところが大きい。

 

単純な性格なので、師匠に言われたことはなんでもそれを打撃として受け止め、よろよろとそれをこなしつつ生きて今ここにいる。「打撃」という過激な表現を加藤先生はお嫌いになるかもしれないが、私の体感としては、それはすべて足場が揺らぐような経験なのだ。

その揺らぎは大きいものもあったし、ささやかなものもある。ささやかにみえながら実のところ足場が総崩れになっていたものもあるし(でも死にはしなかった)、大きく揺らいだと思ったが逆に安定感を増すことになっているものもある。

全く想定もしていなかった打撃が、斜め後ろからやってくることもある。我が師になってくれる存在はこの世のあらゆるところにいるから、常に心を開いておけということだろう。

元来修行系なので、そもそも打撃好き? そのお蔭で色んなおまけが自分に加わっているような気がして、関わって下さる方々にとても感謝している。何の役に立つのかさっぱりわからなかったおまけもあるが、思わぬところで助けられたりしている。

 

そもそもこのブログも、鳥取のセツコさん以外の人は誰も読んでいないという気持ちで、「なんか文句あるかー」と開き直って勝手なことを書いているのだが、最近チラホラと反響のようなものが木霊のように耳に入ってくる。

それはとても嬉しいこと、そして有り難いこと。
これからも自分の最も深いところの声に耳を澄ませつつ、その声に嘘をつかずに言葉を綴っていきたいと思う。
読んで下さっている皆様に、改めて心からの感謝を申し上げたい。

 

今日、また新しいクライエント様とのセッションが始まった。
自分に与えられてきた枠を常に客体化してぶち壊し、目の前の方がしあわせであってくれますようにと思う心のみをもって指導に当たりたい。資格とか認定とかほんとはもうどうでもいい。私に許され、与えられたことをすべて使って、あなたのお役に立てますように。

 

人間は葦の管(ようするにストロー)のように、万処に遍在する絶対者ブラフマンのちからを目の前のひとに伝えることができる。その一本の管として私が使い回されますように。この世を支える絶対的なちからの前に、個としての私を明け渡して生きることができますに。

 

 

 

 

№462 ことばをつかって

わがこころ環(たまき)の如くめぐりては 君をおもひし初めに帰る  川田順



本日再度上京して、奥さまにお会いする。ちょうど1週間前に「また必ず」と言って別れたのが嘘のようだ。旅の準備のなかに、常には持ち歩かないものを忍ばせなくてはならないことが、ひとりの人の不在を際立たせ寂しさがつのる。まだ、信じられない。

ふだんとは違う日々を過ごして、毎日のルーティンができなくなっていた。
人に指導させて頂いている自分にとって必須のこととして、日々行っている一連の行法に取り組むことが疎かになった。ふりかえると、こういうときにこそあたりまえのことをあたりまえにやり抜くことが重要と思える(利休さんが自刃の朝も茶を点てて飲んだように)。こういうときにこそ、修行が試されると。

  

この間に頂いた心遣いを通じて、愛情とは気遣うこと、言葉をかけることだと感じている。

先週末に帰宅して今は山陰にいるわけだが、ここにも故人と繋がっている人がたくさんいる。そういう方のお心遣いをひしひしと感じるし、離れて暮らしていてなかなか会えない方々もお声をかけて下さる。とうぜんながら、故人のことをご存じでない方もおられるわけだが、私を通じてつながっていたと思って下さっているようにお声をかけて下さる。

 

こころのなかでどんなに思っていても、残念ながら、伝えなければなにも伝わらない。

伝統的ヨーガの瞑想実習では、必ず師と弟子の対話を行う。このことをダルシャナという。
この対話の行法は直接のこともあるし、書面やメールによるやり取りもある(実に現代的)。資格取得の過程では主に書面での対話指導を受けた。

この対話の行は非常に重要だと私は(そしてヨーガは)考えていて、こんなに自分のことをとり上げて語りつくさねばならないことは人生でもないことと思う。私の指導ではこのダルシャナを最も重視しているが故に、人によっては体操指導をほとんど行わないこともある。

意識化の要件さえお伝えして理解して頂けば、ご自身の既存の活動の中にヨーガの要素を取り入れることはじゅうぶん可能である。ヨーガを習うということは、体操を習うということなのではなく、自分自身についての理解を深めるということ。この自分自身というのは100年足らずで五元素に還る肉体のことではなく、本来のあなた自身のことであって、このいわゆる「真我」の視点を確立させることが、指導においてなによりも重要だ。当然ながら体操指導においても、意識化の促しを通じてこの視点確立を行っているわけであって、エクササイズをしてもらっているわけではない。

 

10数年の指導の中でひしひしと感じるのは、みな、自分の話を聞いてもらう機会をもたないということ。人間は自分の話をすると気分が良くなり、からだの調子が良くなる。しかしこれを家族や友人相手に行うと、関係がややこしくなる。


ヨーガは歴史の検証に耐えた優れた道具であり、非常に便利だと思っているが、それよりもなによりも私は人が好きだ。だからこの仕事を続けていられるのだと思う。

教室で、その方の個人的なお話を伺うのがたまらなく好きだ。
毎回伺っていると登場人物が増えていき、「健康教室」と歌われている場所で、お父さんの好きな食べ物の話を聞いていたりする。その方のおうちの物置の前に、危険な隙間があることも知っている。猫のために2階の窓を開けておく必要があることや、その猫が子供を産んだことを知っている。

そんな話をなさるとき、自分のからだのどこが痛いとか悪いとか、そんな話題は消えてしまっている。毎日の生活の中にしあわせが在ること、知足の思いが、確かに浮かび上がってくる(村上春樹の言う「小確幸」である)。

おもしろいな、と思ったことが心に残っていて、その方のお顔を拝見するとふとまた浮かんでくる。「そういえばあれはどうなったの?」と訊ねると対話は更に深まっていき、無駄話のように見えることのなかに、そのひとが最も大事にしているものや、求めていることがありありと浮かび上がってくる。その方の主訴や痛みに対して、何が必要なのかも見えてくるように思う。
まずヨーガありきではないからこそ、こういう対話がなによりも重要になる。

 

目の前の方に対する尽きぬ興味をもってその方の瞳を覗き込むとき、私たちは根っこでつながっていると確信する。この根っこでつながっている感じを、目の前の方に伝わる言葉で表現する、そのための訓練をヨーガはダルシャナを通じて私に施してくれた。

 

行法が重要でないとは、私はまったく考えていない。だからこそ毎日自分に行法を課し、その優れた効能を体感し続けている。しかし行法が前面に出てはいけない。

ここで生きているひとりひとりの人、その方にとって意味があり助けになるからこそ、行法に価値が生まれる。

 

あなたにどのような道具や支えが必要なのかは、私があなたを理解することで見えてくる。そういう作業を、手を携えて行いたい。できれば時間をかけて行いたい、何年も。いったんセッションを終了してもいつまでも心にかかる、私にとってヨーガ指導とはそういうもの。

 

 

№461 哀しみのレベル

本当の愛は、痛む。本当の愛は、あなたを自分を超えたところへと連れていく。したがって本当の愛は、あなたを打ち砕く。もし愛によって打ち砕かれなかったら、本当の愛を知らないのだ。           K・ウィルバー 「グレース&グリット」


 

大事なひとが逝ってから四日経った。わずか四日。

また来るからね!といってわかれた私に別離の実感はなく、これまでどおり、いつものように「何月何日から何日まで米子。○○(←お気に入りの美味しいお店)予約した。」というメッセージが届くように思うし、また会える気がしてならない。

しかし同時に、こんなに彼や奥さまのことを考え続けているのは、この世に現身をもって彼がもう居はしないことの確かな証左でもある。

生きているからこそ考えずに済む。喪ったからこそ思う。
生きているときよりも、意識して思うようになる、という言葉を与えてくれた人がいる。
それは救いのようであり、地獄のようでもある。

 

 

彼が死を意識していたとは思わないが(なにしろあまりにも突然だった)、2人で話しながら「奥さんには恩がいっぱいだね」とか「足を向けて寝られないよ」とか、「俺になんかあったら頼むぞ」などと冗談交じりに言い合っていた。

それが思わぬ約束となって私に迫ってきたからこそ、彼に、というよりも彼女のために私は東京へ引き返したのだと思うし、彼もそれを求めていたと思う。

今、私などの嘆きよりもはるかに大きな哀しみを抱えて、奥さまはなんとかかろうじて毎日を生きている。
朝晩様子を伺い、なるべく一緒にいられるように来月以降のスケジュールを考える。

でもなにひとつ私にできはしないのだ。
それは病院にいたあの数日間と一緒で、単に私の心を慰める程度の効能しか持たないことに気付きつつも、いったい誰のためなのかと自問しつつやり取りをする。

 

それはそれは広い交友関係を持っていた人で、好奇心も旺盛なのでどんどんそこに新しい登場人物が現れる。面倒見もよかったから、たくさんの人が彼に感謝を覚えているだろう。

関係性が遠いから、めったに会わないからといって、哀しまないわけではないはずだ。
彼とのほんのわずかなやりとりで救われた思いをした人も、きっと何人もいるはずだ。わずか数度の邂逅でも胸を引きちぎられるような思いをしながら、だれにも何も言えない人がいると思うのだ。

 

 

配偶者との死別は、人間が経験するストレスのなかでもっとも大きなインパクトを持つと言われる。これには関係性の質も当然かかわってくるだろうが、このご夫婦に関して言えばデータ通りという気がしてならない。
だからこそ心配で、個人の思いを体しつつ、自らの専門性も駆使してじゅうぶんにお支えするつもりだ。

 

 

哀しみにレベルはあるのか?
私にも彼との思い出がある。亡くした人を悼む気持ちも大きい。
しかし当事者ではないという思いもある。しょせん他人で、奥さんとは哀しみのレベル感が違うという自虐的な想いが拭い去れない。

 

どんなことでもそれを乗り越えるためには、いったんそのものと真正面から向き合うしかない。私もいつか必ず、この哀しみを真正面から見据えて格闘しなければならない。

 

いわゆる「身内」と呼ばれる人よりも、親密で感情的な関係性を私は多く構築している。今この悲しみを乗り越える過程で、「しょせん他人」などと思ってしまう自らの思考の在り方をこそ精査していかねばならないのだろう。また、それを考えよ、と彼に宿題を与えられたのだろう。

生きていればまた必ず、大切な誰かとのわかれを経験する。
今回の自分の振る舞いは十分に過激だったと思うが、それにご家族が応えてくれた。私のその振る舞いを奇異と思わず、情熱と思ってくれる人たちと生きていきたい。

 

こうしてとにかく目の前のことに向かっていけば、いつか誰かがきっと、なにも言わずに私の肩を抱いてくれるだろう。そのとき初めて、哀しみのレベルなどという愚かなことを言わず、ただ自分のなかにあるものを許容してやることができるような気がする。

だから今はただ、在るべきように、と思う。

 

 

№460 驚きをもって

死の側から照明(てら)せばことにかがやきて
ひたくれなゐの生ならずやも            斎藤史



恩返しというものが可能ならいつか必ずと思ってきたが、それを直接させぬ間に颯爽と次の世へいってしまったひとに、どんな形でなにをお返ししたものかと考えている。

いま、私は落ちついていることができるが、それを決してできないひとがいる。
その方のことをわたしたちはお守りしていかねばならない。そのために私は彼と出会い、こうして関係性を深めてきたのだと思わされる。

ひとの存在や関係性というものは実に不思議で、今、目の前で自分が経験している事象のみをもって判断することは決してできない。
このことをバガヴァッド・ギーターは「二極の対立の克服」という言葉で表現するが、人間の制限のある視力と浅はかな智慧ではなにもわかりはしないという謙虚さをもっていなければ、私たちは苦しみ続けるだけなのだろう。

 

不思議、という言葉を私たちは何気なく使っているが、その言葉のもつ意味を本当に理解はしていないように感じる。


「不審花開く今日の春」という禅語は殊に有名なので、茶を嗜む人ならよくご存じであろうと思う。なぜ今年も春はやってきて、毎年変わらずに花は咲くのだろうか、そのことの驚異をわたしたちは受け取り切らずに毎日流してしまう。


狎れたくない。なにに対しても、どんな活動にも。
毎日当たり前のように使うものに、昨日も弾いた曲に、何年も読み続けている本に。
美しいと思う場所に、好きだと思う音楽に。
そしていつもやりとりをしてくれるひとに、私を案じてくれるあなたに。

あたりまえではない、という気付きをもって毎日を生きることが「知足」の想いへとつながっていく。いつもそうでありたいと思っていたはずなのに、だれかと別れなければ自分の知足の想いが足りてはいなかったことに思い至らない。

満足していること、すべてに新鮮な驚きをもって生きること。
これを自らの肉体をもって日々学んで行ければと思う。

アサナ(ヨーガの体操)に取り組むとき、毎日からだが違っていることに驚かされる。思うように動かないときもある。でも私には、このからだが今この瞬間許されている。まるで自分のもののように使ってよいと与えられている。

からだはものではなく、人がしあわせを感じ取るための土台だと思う。そして、個人的なものではない。ないものねだりをしたり責めたりしないで、ここにこうしてからだをもって「わたし」がいる、という素晴らしさに驚きをもって向かい合いたい。このからだが世界と、そして人と繋がっていくための道具であることも思い出していきたい。
それがアサナというもののある理由だと思う。

いちばんの恋人として、だれよりも愛されたいと思って、あなたの体との関係性を作り上げて欲しい。大事にして、優しく気遣って、目をのぞきこみじっと見つめる。言葉はいらない。

愛してるよと、まず自らの体に言えるからこそ、限りある命を許されてここにいてくれる目の前のひとを、どこまでも深く愛することができるのかもしれない。自らも、目の前のひとも、できうる限り深く愛したい。
ときを重ねるごとに、以前の愛が浅かったと思わされるような、深まりを経験していきたい。

 

 

 

№459 充分だよ

立てるかい 君が背負っているものを 君ごと背負うこともできるよ  木下龍也

 

 

今は落ち着いた心持ちでいることができる。
ヨーガを通じインド哲学に触れてきて、この世にあると見えるものの移ろいやすさや儚さを私という存在の中に叩き込まれた。これは言葉によって叩き込まれた。それが少しずつ血肉となっていく過程を、いま生きている。

頭で学んだことを血肉とするには、実際の人生を生きていくしかない。経験が楔となって、過去の古い考えと新しい知識が混ざり合う機会を与えられる。

 

肉体に意味はないが、魂が今生で宿る宮殿として、その住まう処を清浄に調えたいという思いで心身に対する各種行法を行ってきたが、今夏はその宮殿側の重要性を教えてくれる人が立て続けに何人も現れた。

 

誰もに与えられているこの魂の宮殿の個別性、その様子、触れたときの感覚、そこから伝わってくるけっして目に見えないもの、これらもまた確かに、在る、ものであることに目を開かされた。

 

肉体など幻だといいながら、なぜ私はあの人の姿に胸が締め付けられるような気がするのか。ひとが私に触れて、目に見えない氣やエネルギーを与えてくれるとき肉体にはっきりとした感覚が生じる、それをマーヤー(迷妄)だと言われても理性的には否定しないが、確かにそこに在るものとして感じとっているではないか。

 

音楽を聴くときにお腹の中に響き渡るもの。三絃を弾きながら胸に迫りくるもの。
誰かを思って目に感じる熱さ、涙があふれること。掌であなたの肌に触れたときの温かい滑らかな感触。喧噪の中でも迷いなく私の耳に届いてくる愛しいひとの声。
どれも嘘ではない。幻であっても、今確かにここに在る。

生きていく中で制度があり、儀式がある。バカバカしいと思っても、従ってみせなければ前に進めないルールがある。
そこに無自覚に従うのではなく、意識的に参加していたい。バカバカしいと醒めた感覚で演じるように従うこともあろうし、あえてそのバカバカしさを自分の流儀として採用し、意識的な再調教を自分自身に施すこともあってよい。そのとき空虚な儀式が遊びになる。この夢の中でもとことん遊んでいい、むしろ遊ぶといい。

 

この世は迷妄である、という教えの対極にある確かな肉体の温かさ。
双方のバランスをとって私たちは生きる必要がある。

正直いって私はヨーガでこの双方を学びとれなかった。だから今、ヨーガとは関係ない方々が私に、先生のように学びを与えてくれている。

 

素直な生徒でありたい。
今感じている新鮮な驚きと、見えていなかった世界を見ることの喜びを、ダルシャナで鍛えられた言語感覚を用いて表現したい。せっかく肉体を与えられているなら、五感で味わえるものを意識的に味わいたい。ヨーガ教師だから制感を保って溺れることなく、と思ってしまうけれど、たまに逸脱することを恐れなくてもいいのかもしれない。枠組みにとらわれていることをこそ恐れるべきなのかもしれない。

 


今日、あるひとの肉体が火の力をもって五元素に還る。
そのひとはすでにそこにはおらず、この世界のあらゆるところに遍在している。いまここに、私のそばにいる。大事にしていたひとのそばにもいる。好きだった場所にもいる。
その肉体がまだ魂の宮殿であったとき、わたしに多くの感覚の楽しさを教えてくれた。主に味で、そして音で。

 

この先、絶対者ブラフマンになにごとかを祈ろうとするとき、幻だったそのひとの現身を思い出してしまいそうだ。すべて御心のままにと思っていますが、そこにいるならちょっとだけなんとかしてくれないかな? などと。

 

あなたと過ごした12年の歳月は、私と娘二人を大きく変えた。
あなたがいなければ、東京という街をこんなにも慕わしく思っていなかった。もうこの世で会えないことはまだ信じられないけれど、もう少し永く一緒にいたかったなどとはもう言うまい。充分だった、今ここに至ってなんの不足もない。

充分だった。




 

№458 泣いていいよ、と

体などくれてやるから君の持つ愛という名の付く全てをよこせ   岡崎裕美子


前職のせいなのか生まれつきなのか、声が大きい。
次女にはいつも叱られている。内緒話はできないね、ママは絶対に浮気はできんなと言われる。声が大きいからバレるそうだ。なるほど、そうか、浮気は無理か。肝に銘じておこう。

自分としては、ヨーガ実践やアーユルヴェーダの養生法の故に小さな心身の変動が敏感に感じ取れるため、いつも何かしら気になりながら生きている。食も相当節制している。
繊細なつもりで生きているのだがそれはどうやら本人の錯覚に過ぎないようで、やたら元気な人だと思われているようである。

ヨーガの先生になる前からなので、これは性質らしい。もしくは好意的に考えると、与えられた才能なのかもしれない。

自衛隊を辞した後、自分に対する不足感がいっぱいで、いま思い返すと「ばかじゃないの…」と思うセミナーや勉強会にたくさん出た。素晴らしい出会いを得られたものもあるし、素晴らしい教えに出会ったことももちろんある。

そういったところのワーク等で人と接し、その場の高揚感かはたまた変性意識状態にあったものか、何度かプロポーズをされた(*その頃にはもう結婚してましたよ)。

曰く、「あなたみたいな元気な人がそばにいてくれたら…」。
僕が幸せになれたり、仕事が上手くいきそうな気がするのであろうか。
それは大変な誉め言葉であることは認める。現在セラピストとして活動をしているわけだが、「なんかしらんけど先生のそばにおると元気出るわ」と思ってもらえなかったらマズイではないか。そう感じてもらえない有資格者は現実にはいて、だからこそヨーガ教師はこれだけの高確率で淘汰され消えていく。

ひとの心臓からは1.5mくらい先までなにかが出ていると言う。ここで専門的な話はやめておくが、これはスピ系の話ではなくエネルギーの話だ。
先生という呼称で呼ばれることのある者は、この自分の胸などから知らぬうちに発せられている何かに責任を持っていなければならない。

昨日イライラしたり、もしかして毎日夫に消耗させられていたりしたら、この発せられている「何か」の質や力は劣化するだろう。そのとききっと、私が思うに、先生が目の前の生徒から何かを吸い取ることになる。

でもこれもかなり複雑な話で、嫌な目に遭ったから即エネルギーが劣化するなどということではなく、大きな、生きる上でのダイナミクスの中で二極のエネルギーの波の中を鮮やかに泳ぎ切っていることが大事なのだと思う。上がったり下がったりでいいのだ。

ここでなんども書いているが、現在の家族を取り巻く制度やそれが孕む問題は実に根深いものがあって、その過酷な環境の中で逞しく生きていくためには、通り一遍の教科書的な対応では乗り切れない。特に女性は難しい。
社会で活躍し、自らもしあわせでいるために、女性は何かを超越した心を持っておく必要があると思う。

私の周囲にいる素敵な女性たちは、みなさんその超越した心を持っておられるように感じる。生きにくい世界の中でも、自由な心持でいることはできる。それは自分ひとりの在り様でそうすることができる。
誰かにしあわせにしてもらう必要もないし、誰か元気な人をそばに置いていく必要もない。

そのような魅力的な女性のひとりが今日、私を深く癒してくれた。
私がいつも元気そうで(声も大きくて、酒もたくさん飲んで)弱ることなどないように見えたとしても、生きていればいろんなことが起こる。

なにごとかがあったとき、いったい私はどこで泣けばいいのか。

哀しいことがあったとき、とにかく十分に哀しめ、泣け!、と私はアドバイスする。
さんざん泣いたら、人は顔をくしゃくしゃにしながら「えへ」と笑える。それは生そのものが人に与えてくれている力だ。

だから私を身近に感じて下さっている方々にお願いしたい。
「なにかあったらこの胸で思う存分泣け」と言ってくれ、と(男女問わず)。

それであなたの素敵な上着が私の涙や鼻水でぐちゃぐちゃになって、私の顔がとんでもなく醜くなってしまった頃合いで、「美味しいものを食べに行こうか」と言って欲しい。
その後も、涙を流しながら物を食べることと、「おいしい!」と照れ笑いをすることを交互に繰り返しながら私は間違いなく浮上していく。
その経験がものすごく哀しいことであったとしても、ほんの少しの哀しみであったとしても、その哀しみそのものと、あなたがこんなときにもそばにいてくれたことを滋養として、またこれから人に向き合って自分の持てるものすべてをさらけ出して生きていくことができるだろう。

なんてへんてこりんな顔だろう、と思いながら、優しく微笑んでそばにいて欲しい。
そしていつか私も、同じことを人にしてあげる。その覚悟はもう決まっている。
なにかあれば声をかけて。私にハグされながら泣いたらいい。

けっこう体格いいし体幹もしっかりしてるので、安定感あると思うよ。