君がもうそこにはいないことだけを確かに告げて絵葉書が届く 松村正直
亡くなった人の訃報を聞いて連絡をしてくれるひとがいる。こちらから連絡を差し上げることも始めており、波紋が広がりつつある。本人ですら予感しなかったあまりに急な逝去であったことと、最期の数日を一緒に過ごせたことへの有難さが、改めて胸に迫る。
また会える、という確信があるからこそ次の地に向かっていける。
茶の湯の言葉で一期一会というものは有名だけれど、次はないかもしれないという思いで点て、飲むお茶はどんな味がするのだろうか。
あの日「また来るからね」と言って別れたとき、次に会えないことを考えなかった。1週間は大丈夫だとほんとうに信じて手を振った。多くのひとの死に触れている医療者ならば、その確信が甘えたものであることがわかったのだろうか。でももしそんなことを言われたとしても、あのときの私は信じなかっただろう。
「また会えるよ」という言葉が、わたしのなかで哀しいことばになった。
同時に、ひとと会えることが素晴らしいことだと、改めて思う。
一昨日、数年ぶりに先生や知人に会うことができたが、変わらずにお元気でおられて、実際に触れることのできる距離でお目にかかれるのはこの上なく嬉しいことだった。
ひとを思うのはときに苦しいことだけれど、苦しいくらいひとを思う経験はなかなかできないのかもしれない。若いころのエゴイスティックな恋愛ではなく、成熟した大人となった自分としてひとを大切に思うということは、とても大事なことであって、これは意識的に育てていく感情であり感覚であると考える。
これを愛と表現してしまっていいのかどうか私にはわからないけれども、次に会えないなんて考えたくもないひとたちの顔が浮かぶ。そういう存在が多ければいいとは思わない。
ひとは流れる波のようにも存在しているから、人生にも季節が生じ、生きて存在していながら二度と会わないひとたちもいる。
ヨーガでは、ひとは生きているかぎり成長すると考えている。その理由は、生きていることで経験が増え、出会う人が増えるからだという。もし隠者のように暮らして誰とも会わなかったら、経験も多彩なものとなり得ないだろうから、ヨーガの考えるゆるやかな成長も生じないかもしれない。
本を通じて、もうこの世では会えないひとと触れ合うのもいい。その体験にも波や季節があって、一時期惚れて狂うように読む本の著者と、私は確かに愛し合っていると思う。
生きていることは波のようだから、激しく上下に変動をしている。変動しない人生なんてないし、何かを学んだり体得したりすることで変動しない自分を目指してはいけない。
右肩上がりや安定なんてそもそもないのだから、激しくうねる波として覚悟を決めて生きたい。痛いくらいひとを好きになって、胸が掻きむしられるような気持ちのなかで涙を流してもいい。
しばらく前までもうこのまま枯れて死んでもいいやと思っていたけれど、そんなことを考えるのはやめて、もう少し生きることに貪欲になってみよう。