蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№463 背を押されて

なんというドラマチックな夜だろう たった一つのことだけがある  辻井竜一

 

 

一昨日に東京入りし、肉体は骨になってしまったものの、たぶんそこここにいて私たちの話を聞いているであろうお兄ちゃんの写真に手を合わせた。奥様の悲哀は語り尽くせないだろうが、生きている者は、預かった命を使ってこの世界に居続ける役割を与えられている。そこから逃げることはできない。

だから今は毎日の雑務に心を寄せて、お心を保って欲しいと願っている。
ご主人様とお別れになった哀しみが痛まなくなる日は、たぶん来ない。その痛みを胸にお抱えになったまま生きることで、豊かになる人生があるはずだと信じている。


さて昨日、「”発達指向型”人材育成の可能性を探究する ~インテグラル理論・成人発達理論の視点から~」と題して、インテグラル理論の師・鈴木規夫先生と成人発達理論の師・加藤洋平先生お二人による、何とも贅沢な対談が行われた。加藤先生の久々の帰国に合わせて企画されたもの。

そしてこれまた非常に贅沢なことに、お許し頂いて配信の場に同席させて頂いたのだ。
規夫先生、ありがとうございます! 

リアル加藤先生にお目にかかるのは4年ぶり? 大変恐縮とは存じますが、加藤先生、なんだか変わられた。随分お楽に、そしてより自由になられたように感じた。
規夫師匠とのノリノリのライブは、「対談」という言葉では括れない、なんだかジャズセッションを聴いているような心持にさせられた。

発達なんて求めるな、目指すな

目の前の人のしあわせを求めろ

上下動することがいかに人間を成長させるか

内側のものをよろこびと共に表現することが、構造を揺るがすことにつながる

 

まあ、こんなことだけ書いてもこのセッションの素晴らしさは伝わらないのだけれども、おふたりとも発達というものがもたらす過酷さを重々ご承知になりながら、加藤先生は場合によってはそれを促す(背を押す)支援を為されているとのお言葉があった。

いつか必ず、ブログを書くように言ってくれたのは規夫師匠。
それを実際に始めるように強く動機づけして下さったのは、加藤先生。
初めは名前も出さずにおずおずとやっていたものを、明確に氏名を出して継続しているのも加藤先生のお力に負うところが大きい。

 

単純な性格なので、師匠に言われたことはなんでもそれを打撃として受け止め、よろよろとそれをこなしつつ生きて今ここにいる。「打撃」という過激な表現を加藤先生はお嫌いになるかもしれないが、私の体感としては、それはすべて足場が揺らぐような経験なのだ。

その揺らぎは大きいものもあったし、ささやかなものもある。ささやかにみえながら実のところ足場が総崩れになっていたものもあるし(でも死にはしなかった)、大きく揺らいだと思ったが逆に安定感を増すことになっているものもある。

全く想定もしていなかった打撃が、斜め後ろからやってくることもある。我が師になってくれる存在はこの世のあらゆるところにいるから、常に心を開いておけということだろう。

元来修行系なので、そもそも打撃好き? そのお蔭で色んなおまけが自分に加わっているような気がして、関わって下さる方々にとても感謝している。何の役に立つのかさっぱりわからなかったおまけもあるが、思わぬところで助けられたりしている。

 

そもそもこのブログも、鳥取のセツコさん以外の人は誰も読んでいないという気持ちで、「なんか文句あるかー」と開き直って勝手なことを書いているのだが、最近チラホラと反響のようなものが木霊のように耳に入ってくる。

それはとても嬉しいこと、そして有り難いこと。
これからも自分の最も深いところの声に耳を澄ませつつ、その声に嘘をつかずに言葉を綴っていきたいと思う。
読んで下さっている皆様に、改めて心からの感謝を申し上げたい。

 

今日、また新しいクライエント様とのセッションが始まった。
自分に与えられてきた枠を常に客体化してぶち壊し、目の前の方がしあわせであってくれますようにと思う心のみをもって指導に当たりたい。資格とか認定とかほんとはもうどうでもいい。私に許され、与えられたことをすべて使って、あなたのお役に立てますように。

 

人間は葦の管(ようするにストロー)のように、万処に遍在する絶対者ブラフマンのちからを目の前のひとに伝えることができる。その一本の管として私が使い回されますように。この世を支える絶対的なちからの前に、個としての私を明け渡して生きることができますに。