蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№395 信念を疑ってみる

「二二 アートマンを、未だ果たしあっていない義務をもたず、行為そのものをもたず、行為の結果をもたず、「私のもの」とか「私は」という観念をもたない、と見るその人は〔心理を〕見る。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 14章

 

 

ヨーガでは「五蔵説」という見方を用いて人間存在を理解しようとする。

肉体を、食物鞘 Annamaya kosha という。
文字通り食べ物が元となってできているところで、目で見て、触れることができる。
この肉体が目で見ることができるために、多くの人は「肉体こそ自分自身であると」考えてしまう。
このからだを粗雑体 Stura sharira とも呼ぶ。

さらに、
生気鞘 Pranamaya kosha

意思鞘 Manomaya kosha

理知鞘 Vijinanamaya kosha

があり、これらを微細体 Sukshuma sharira と呼ぶ。

そして存在の中心には、歓喜鞘 Anandamaya kosha がある。
これは純粋意識そのものであり、これこそが真に「私」と呼べるところである。
原因体 Karana sharira とも呼ぶ。まさに人間存在の原因である鞘である。

今日はこのうちの、理知鞘について話してみたい。
この理知鞘とは、ひとの価値判断のもととなる智慧の部分である。

ヨーガ療法では、人の心身に苦痛が生じている場合、その苦痛の原因がどの鞘にあるのかをアセスメントし、その仮説に則ってヨーガ指導を行うことになる。(ラージャ・ヨーガの場合、人として生まれてきていることこそが病だと考えている気がする。)

そして、障害があると見立てられることの多いのが、正にこの理知鞘であって、自分のなかの価値判断そのものがズレているので、下位の鞘となる意思鞘・生気鞘・食物鞘に症状が生じているのだと考え、例えばどこかに痛みがあったとしても食物鞘単体が悪いというようには見ない。

当然、理知鞘には何かしらの判断の基準となる情報がつまっているのだが、この情報の真実度が多くの場合かなりあやふやである。

親が言っていたとか、学校で教えられたとか、自分の過去の経験でそう判断したとか、本当にその考えを信じて身を委ねていいものなのか怪しいガラクタのような情報(と言ってしまうと身も蓋もないが)が詰まっているのである。

なのでヨーガの立場からすると、数千年も続いてきた古典(聖典)を読んで、それを学びつつ現に生きてきた師匠にガイドしてもらいながら、理知鞘の中身を、より真実に近い智慧に取り換えていきましょうよと提案しているのである。
細かいことだが師匠は生きているひとである必要はないので、かつて古典を理解して生き、既に死んだ方でもOKである。

ヨーガの古典は、先達方の優れたお仕事のお蔭で日本語でも読むことができるが、残念ながらただ読んでも意味がわからないことが多い。
佐保田鶴治先生の訳して下さった「ヨーガ根本経典」を初めて読んだヨーガ超初心者の当時は、1章で感激し、2章で困惑し、3章で騙されていたような気になったものだ。

理知鞘の中身の入れ替え作業のためには、バガヴァッド・ギーターの教えとして有名な「二極の対立の超越(克服)」がとにかく重要である。

何をしていても、何が何でも、これまでのパターンによる「好き・嫌い」「良い・悪い」などの分類を「ふーん、まあどっちとは言い切れないかもね~」と涼しい顔をして言い続け、その価値基準そのものを疑わなければならないのである。

昨日、敬愛する規夫先生の講義(インテグラル理論)を受けながら、上記のようなことを思い浮かべ、バガヴァッド・ギーターの教えは偉大だなあと考えていた。

そんな私の理知鞘にはヨーガ系の信念が詰まっていて、コーランを読んでも、マイスター・エックハルト道元の書籍を読んでも、はたまた量子物理学の本を読んでも、「バガヴァッド・ギーターは大したもんだわ」というところに常に還っていくのだが、人が生きる長さをはるかに超越して伝えられてきたものなのだから、私個人の愚かな考えよりずっと良いと思って信頼している。