蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№344  がんばらないどころ

「執着することなく常になすべき行為をなせ。というのも、執着なしに行為を行えば人は究極存在に達するからである。」バガヴァット・ギーターⅢ-19


生きていれば状態は日々変化するし、数か月というスパンでも上下する。

いい時は喜んで、悪い時はがっかりして悲しむ、というものごとの受け止め方を、ヨーガでは推奨していない。
(バガヴァット・ギーターⅡ-38の有名な詩句 「苦楽、得失、勝敗を平等のものと見て、戦いの準備をせよ。そうすれば罪悪を免れるであろう。」)

私たちは、ほんとうは「見ている側」であることを思い出して、
「上がったり下がったりしているな。でも、それが生きるってことだもんね」
客観的に見ていることにしようと教えている。

そんなこと言ってもさ…、という声が聴こえてきそうである。
仰るとおり、簡単にはできない。
だから肉体も総動員して練習していくわけです。

そもそも激しく上がったり下がったりことに身を任せて、そのまま放置しておいたらどうなるだろう。

からだのことをもっと心配してあげたい。
ストレスというものがない人生はないから、受け止める自分の「反応」や「許容度」を変えていくことで、できればその悪影響を緩和したい。

ストレスがかかっているとき
こころのなかで強い葛藤が生じているとき
体内では実際に戦いが起こっている。

現代のストレスはほとんどが頭のなかで起こっているが、恐ろしいけものに襲われたような心身の状態は実際の脅威と変わりなく繰り返されている。
ストレスホルモンが分泌され、脳波は高β波を示す。消化活動は止まり、免疫力は下がる。肉体の老化は進む。

こんな状態に自分を放り込んだままで長期間過ごせば、大変なことになるではないですか!

でもこれが、無意識のうちに常態化している人がたくさんいるということ。
気付いてもいない。
いや、気付くことができないというのが正しいのかもしれない。
気付かないことがこの社会ではメリットになっているから。
でもそれは甚だしく調和を欠いたメリットだ。

だからこそ、思っても見なかった病気や症状が、ある日突然降って湧いたような気がする。でも、きっとずっと前から、心身は緊急事態だった。

心が上手く制御できないと思っている場合、からだの練習を行っていく必要がある。
からだがつらい場合は、こころの練習を行っていくことが助けになるだろう。

肉体や、「心の窓」である呼吸を活用して自分自身と向かい合うことで、今どんな状態なのかが感じ取れるようになる。
まず感じて、そののちに客観的に捉えられるようになる。

意識化→客観視という順序で、自己理解は進む。
からだを使った体操実習を疎かにしていたり、もしくは体操の際に集中して「意識化」していく練習を怠って気もそぞろにやっていると、なかなか“がんばらないどころ”に到達できない。

こころもからだも、今生のみお借りしている貴重な道具なので存分に活用して欲しい。
だまされたと思って、やってみればそのとおりになる。
4000年かけて人体実験してきたんだから。

№343 ヨーガの対話技法・ダルシャナ

先日、とある打ち合わせで、「ヨーガはカウンセリングみたいですね」と言われたのだが、まさにそのとおり。
ただし、カウンセリングという言葉は使わず、ダルシャナという。
サンスクリット語で、師と弟子の間で行われる1対1の対話のことを言う。

疑問や相談事があるとき、師と二人きりになって話を聴いてもらい、アドバイスや指示を受ける。ヒマラヤの伝統的な方法だと、師と二人で布を被って行うそうだ。完全に二人きりになるようなことはアシュラムでは難しいからだろうか。もっと深い意味もあるように思う。

この対話はヴェーダ智慧に則って行われる
そのため、ヨーガ教師はヨーガの智慧を学び続けることと、自分の経験から生じ続ける記憶を生涯かけて浄化し続けることが課されている。

アメリカ的なヨーガの先生たちは、ヴェーダ聖典を勉強するのだろうか? 
話に聞くところによると、1泊2日でインストラクターの資格をもらえたりするそうだが、2日ばかりでヴェーダ智慧を学び、自分の過去の経験を智慧に照らし合わせて再認識することはできないだろう。それじゃあどんな土台の上に指導を行っているのか、不安になっても仕様がないではないか。一部の指導者に対する私の懸念は、杞憂ではないはずだ。

インドには6つの哲学の学派(シャッドダルシャナ=インド六派哲学)がある。
ヨーガはそのうちの二つ、ヨーガ学派とサーンキヤ哲学を基礎としている(二つの違いについて話すと長くなるので割愛する)。


「ヨーガ・スートラ」「バガヴァット・ギーター」を始めとした教典を読んで勉強するのだが、ヨーガを実際にやっていないと(いや、やっていても)わからないことが多い。なので、師に講読して貰いながら読んでいく。

ヨーガには確固たる人間観がある。
病気や不幸をどう捉えるか、生や死についてどう考えるか、という人間の根本となる悩みについて考え抜いてきた結果として、体操を始めとする行法をお伝えできるのだと思う。

人の悩み苦しみや、肉体の病気がどのように生じるのかについて教典は教えているので、病因論や人間の構造論なども備えている。
また、ヨーガとアーユルヴェーダは車の両輪と言われて、指導者はその知識も持った上で指導に当たるのが望ましい。
なぜなら生徒さんの多くは、心身の不調を抱えて教室の門を叩くからだ。実際に今どこかが痛い人に、哲学的なことだけ話しても助けにならない。

日々の養生法や、心身の浄化法をアーユルヴェーダは教えてくれている。老化は病気だと捉えている医学なので若返りまでカバーしている(ラサ―ヤナ科という若返りの部門がある)。

ラサは体内を巡る精髄を、アヤナは特別な研究を意味し、健康で長く生きるための方法を教えているのだが、アーユルヴェーダの師 B・バット博士によると、瞑想が一番効くそうである(確かにバット博士は、初めてお会いした時からまったく変わらないように見える)。

頭のなかで思考をぐるぐる回すことは老化も促進し、当然ながら肉体に病気も生むということ。
ということでふりだしに戻る。

教典の教えと自分の実体験を持って、真に健やかな在り方を伝えて、そのように生きて欲しいと思っているのならば、じっくり話をするしかないのだ。
だからこそ、指導においてダルシャナは必須である。

№342 がんばるのは禁止

「そうした苦悩との関係の断ち切り方がヨーガと呼ばれるものであると知れ。」
バガヴァット・ギーター Ⅵ-23

 

東京・田端の透析専門クリニックが発行しているニューズレターに寄稿させて頂くことになった。初めての打ち合わせを可愛いお嬢さんとさせて頂いたのだが、やはり「ヨガ」に対する根強い固定的なイメージがあることがわかる。

はっきり認めよう。私たちはこの業界における少数民族である。
主流は間違いなく欧米経由でやってきたフィットネス・ヨーガ。
カッコよくポーズをキメるために素敵なウェアや、機能性が高いヨガ・マットが必要だ。鏡に映った自分に惚れ惚れできるようになるために、努力して自己改善に取り組んでほしい。

方や私たちはウェアも要らない。目を瞑ってひとりでこっそりできるようになるために一時的に練習は必要だが、基本的には誰も見ていないのだから布団の上でパジャマでやればよい。そこに市場は生まれず、誰も儲からない。

しかし少数民族にも主張はある。なのでこういう場で訴え続けることにする。


さて、冒頭の引用文から、インドから直輸入された伝統的なヨーガが何を目指しているのかがぼんやりと理解していただけるだろうか。

人生でこれまで採用してきた「生き方のパターン」がうまく機能しなくなっていることに気付いて、それを自分で変えていく、いや、むしろ変えていく力が自分自身の内奥に既に備わっていたことを思い出す。
意識的に、改めて自分の人生を生き直す必要があることを、ヨーガやそのほかの伝統的な実践法は教えているのだと思う。

これまで出会ってきた生徒さん方は、間違いなくまじめな方々だった。
自分になにか悪いところがあるなら改善しようという意志を持ち、人のために自らの許容量を超えて尽くしてしまう。尽くすことが喜びから生じているならまだしも、耐えて頑張り抜かなければ生きているのが許されないとでも思っているかのような強迫観念がある。

そんなことをしていると、心身は全体性を取り戻すために悲鳴を上げてくれる。
「おーい、ちょっと待って。もう無理だからやり方変えようよ」と教えてくれるのである。
それが体の不調となって現れることで、ようやく本来の自分のニーズに気付くことができるのだ。

だから症状や病気が悪いわけではない。不幸ですら、本来のあなた自身に立ち返らせてくれる偉大なる教師だと言われる。

では本来の自分というものに帰っていくために、さらなる努力が必要なのか?
今、既にこんなに苦しいのに?

そこに勘違いがある。
グッと握った掌を開いて、力を解放してやるだけでいい。
生きるために努力が必要だという刷り込みを捨てること。

今、息をしているでしょう?
次の息が吐かれまた吸い込まれるその時に、世界があなたに「ここにいてほしい」と語りかけている。

根深い刷り込みの影響を解くには、あたまで考えるだけでは無理なので、からだの反応を変えていく必要がある。だからポーズや調気法がある。
ヨガ歴が即ち、だんだん楽に生きられるようになった期間となるような実践だけ、やって欲しい。
がんばらないようにしてください。気持ちよさを基準にして下さい。


№341 安心を取り戻す

昨日筝曲の稽古も再開した。普段どおりのことがなにごともなくできる日常の価値を、改めて感じさせられる。

先週末に再開したお茶の稽古では、濃茶の点前は行わなかった。
濃茶とは「一味同心」と言って、同じ茶碗からお茶を頂く点前だ。要するに「回し飲み」をするので(自分が頂いた後、懐紙で清めるとはいえ)、今のような状況では慎重にならざるを得ない。

業病を患っていた大谷吉継と同じ茶碗から飲むことを拒否した者たちの前で、石田三成だけが気にせずに飲んだそうだ。吉継はそのことに深く感じ入り、三成と命運をともにしたという話を思い返しつつ、“同じ茶碗から飲む”という行為のもつ深い意味を、こんな時だからこそ考えた。

さて、実践というもの意味について、自分に何かが足りないとか悪いところがあるという思いから始まることが多いように思う。もちろん私もそうだったけれど、本来人という存在に欠けているところなどなく、そのことを思い出すことが伝統的な実践の目的のひとつだということを、決して忘れないでほしい。

多くの人は、このことを忘れたまま一生を終えるのだと思う。
だからこそ、気付いた人は人に伝えなければならない。
あなたが何らかの方法で楽になることができたとき、人にそれを伝えることが大事だ。
同時に、あるひとつの方法を強要しないことも大事。道は無数にあるので、自分が好む道を否定する人もいるはずだし、そんな人が居るのは当然なのだ。

母親は、子供を育てる時に、自分の世界観を子供に伝えていく。
その世界観が「この世は、危険で油断がならないところ」というものであったなら、子供も同じように世界を捉えるだろう。

E・メイヤー教授によると、約4割の人がそもそもの初めから世界を危険に満ちたものとして捉えていて、その危険な世界を生き抜くために、常時身体が緊急事態になっているらしい。
親が深い愛情をもって、子供を守るためにやっていることが裏目に出てしまうようなことが、この世の中で実際に起こっている。

成長の過程で前頭前皮質を刺激するような活動が自然に取り入れられれば、いったん緊急事態モードになっていた身体の働きを変えていくことができる。どんなにすばらしい子育てをしても、子供の受け取り方次第でトラウマは生じてしまうというからこそ、生きることのなかに自然に身体からのアプローチを取り入れてもらえるといいなと思う。

かくいう私も、生きていて安心で安全だと心の底から思えるようになったのはここ数年のことだ。そしてその感覚は年々深まっていっている。安心だと感じることが上手になっている感覚だ。

ヨーガの世界では、加齢とはより成熟し、豊かになることと言われている。
20年後にこの感覚がどのように変容しているか、楽しみである。

№340 どこにいても安心

自分がどうみられているか気になるだろうか?
初めての方が教室に来られてレッスンに参加するとき、当然ながら勝手がわからず戸惑われる。

ヨーガの役目は「人に打撃を与えること」であり、ある状況の中で自分がどうふるまうか、冷静に見つめることができるよう意識を育てて欲しいとも考えている。

状況依存か独尊位か、ということについて昨日書いたけれども、いつでもどこでも、自分という主体をしっかりと持ち、間違ってもだいじょうぶ、不安でもだいじょうぶ、という心の姿勢を保っておられたら安心だ。

状況依存に関しては、興味深い事例がある。
これは、お茶の師が語って下さったことである。

表千家で茶を学ぶ自分が、異なるご流儀の茶会にお邪魔したとき、周囲にいる方々が自分とは違う所作をしているのに気づいたらどうふるまうか?
茶の湯は流儀によって所作がさまざまで、茶を頂くとき茶碗を回す方向も違う。もしかしたら隣のひとは回さないかもしれない。自分がこれまで習ってきたことと違うことを皆がやっていて、頭のなかが大混乱になる… そんなとき、どうするのが良いだろうか?

「自分の流儀を通しなさい」
これが師の教え。
周囲の人みなが表流の所作を知らず、「あ、あのひと、まわし方が間違ってる」と思われたりしたとしても、自分の流儀を貫く。それでよい。

茶の湯の名誉のために申し添えると、稽古をつまれた方々は、ひとのすることをあげつらったり嘲笑するようなことはぜったいになさらない。)

現代社会で茶道を学ぶ価値は、こういう点にもあると思う。
自分自身の型をたしかにもつことで、どのような場面であっても怖気づくことなく堂々とふるまえるからだ。

さて話を教室に戻そう。
初めての場所で、初めての動きをして、わけがわからず間違ったりついていけなかったりする自分のなかに、安心していることができたらどんなにいいだろうか。

多くの方は、初めてなのに「よくわからないから、できなくてすみません」と仰る。
わからないからこそこの場にやってきたのであって、できなくて当たり前なのだけれど、できない私がいけない、という考えを持ってしまっている。

私は学校が嫌いだったのだが、そこは「はじめてやることでも、うまくやってのけることで褒められる場」だったからだ(そんなことはない学校も、もしかしたらあるのかもしれないが)。

だから、じょうずにできることは好きになり、うまくできないことは嫌いになる。
でも大人になって、時間をかけて優しく教えてもらえれば、「自分にはできない」と思っていたことでもできるようになることを知った。

できないことは悪いことではない。
もし笑うひとがいたら、笑う方がおかしいと思っていてほしい。
どんな場面でも「だいじょうぶ」と思える自分に、体操を通じてなっていくことができる。

№339 ポジティブなふりをしない

ストレスを受けたとき、からだのなかでなにが起こっているのだろうか?

ストレスには、自分にとって良いものと悪いものがある。
実を言うと、一見悪いことのように見えるストレスでも、結果的におおきな気付きを与え、人格を成長させてくれることがあるので、受け取るこちらがわの「うけとめ方」によって影響は大きく変わる。

このことを体験的に知っているので、インドの古典「バガヴァットギーター」では、とても美しい表現でそのことを伝えている。

 “絶えず流れ込む川の水を受け入れ、
  満たされながら、海は全く揺らぐことはない。”     第2章70章

なので、ゆくゆくは「ストレスを自分にとってポジティブな影響に変えて受け取れる方法、および受け容れることのできる器」を養い育て、対症療法的・一時的にストレスに反応することから卒業してほしいわけだが、まずはストレスの影響についてみていこう。

自分にとってネガティブなストレスを受けたと感じると、脳の苦痛回路 ”HPA経路“ が活性化する。
そうすると、キラーストレスという悪影響があらわれ、動脈硬化、免疫系ダメージ、がん、突然死といったことが生じ得る状態になってしまう。

この状態は、ストレスを受ける本人の、情動や思考の回路に大きく左右される。
ということは、情動や思考の回路を修正することで、医療的な効果が最大限になるということでもある。

一見前向きにみえるが、無理をしているひとや、むりやり元気を装っているひとがいる。
心あたりのある人は多いかもしれない。ヨーガを始める前のかつての自分も正にそうだったわけだが、こういう人のことを「ポジティブぶりっこ」と表現した方があるという。

ポジティブぶりっこは、対外的には高評価を得ることができるだろうが、自分の内面の状態では大変なことになっている。
外面と内面のギャップによる反動で、苦痛系回路(HPA経路)がフル活動し、肉体的なダメージが蓄積していくのだ。

人間は社会的ないきものなので、立場上推奨されるポジティブな態度を”偽装“せねばならないときもある。そうすると、偽装された自己イメージが肥大化してしまい、本来の弱かったり、しょんぼりすることもある、しかし同時にいきいきとした自由度を持つ自分が、イメージに飲み込まれてしまうのだ。

からだの不調は結果的に生じたものなので、そこにだけ注目して、肉体の悪いところを除去するという視点ではなく、本来の自分自身にとってより楽で自然である状態と、対外的な表現をに一致させていくような努力も同時になされて欲しいと思う(ふだん意識できていない自分の側面と時間をかけて向き合うことが必要なので、簡単なことではないけれども、大いに価値のあることだ。)
それこそが真の健康へと至る道だと思う。

スッカ(sukka)とはサンスクリット語で「苦痛のないこと」を表すことばだ。
あたまで考えた楽であることと、肉体の感じる楽の双方を調和させて、あなた自身のスッカの境地を見出してほしい。

№338 自分を観る洞察力  

 

「自分の恐怖や痛みを自覚し、同時に、自分の奥深くにある”何か“と結びつくことによって、安定と力を得る方法を学ばなければなりません。この”何か“とは、”洞察力“のことです。」
                                J・カバットジン

 

からだを通じて自分というものに取り組もうとするとき、なにかしらの苦痛がきっかけになることが多い。

そこでありがちな、かつ大きな間違いとは、あなたの中になにか悪いものがあって、それを取り去らねばならないという考えである。

 

あなたのなかにあるものがどのようなものであれ、それが無くなりさえすればすべてOKなどという単純なものではないし、自分のなかに存在を許されない何かがあるという発想はとても破滅的だ。

まず、すべてをありのままに見よ、と教えられた。
自分の痛みや、つらい過去の記憶を想起させると心がざわめき、悲鳴を上げるから、それをそのままに見てごらんと。

しかしあなたは(そしてわたしも)ほんとうは心以上の存在だから、目を覆っていた手を外して「それ」をしっかり見ても、決して死んだりはしない。

むしろ「見てみよう」と思うことで、痛みや心の苦しみが、本当はなにをあなたに伝えたかったのかを理解できるようになる。

見ないまま放っておくと、その根っこにある「何か」は影に隠れて悪さをするだろう。
影となった「何か」は、あなたの人間関係の裏側に入りこんでいくかもしれない。
からだのどこかで蠢いて、嫌な感覚をつくり出すかもしれない。

自分の外側にあるものを理解するには、自分の感覚を研ぎ澄ませておくことが大事だ。
でもその時に、自分の内側に戦う相手があって、戦闘状態だったらいったいどうなるだろう。考えるだけで大変だ。

まずこの内戦状態を解消すること。
今、痛みがあるなら「なぜ痛むのですか」と対話してみることもいい。
そういうやり方がバカバカしいと思うなら、MBSR(マインドフルネスストレス低減法)で使われる“レーズンを使った瞑想”を試してみてはどうか。

これは、「宇宙人が初めて地球の食べ物を口にしてみた状況」をロールプレイするというもの。

レーズンを3粒準備し、順に口に入れて、「自分の感覚を見る自分」を観察していくのだが、リトリートの時にはいっぺんに三粒食べてしまった人がいた… カバットジン氏がちょっと呆れていたのが面白かった。

さて、レーズンを口に入れたあなたは宇宙人なので、これがなにか知らないはず。
でも。

 

まったく知らない、という地平に立って何かを体験することが、たぶんできない。
「これはレーズンだな」
「ブドウだよね」
「甘いよね」
といった先入観から、私たちは物事を経験している

先入観を取り払い、痛みや苦しみという感覚と向き合っていくと、なにかこれまでと違う智慧が自分のなかに生まれてくるのがわかる。
これは、本を読んだり、誰かになにかを教えてもらうことで見つけられるものとはまったく違う、あなた独自の智慧だ。

 

この智慧を生むために、症状や病が生じていると考えてみて欲しい。
あなたのなかに、直さねばならない悪いところなど、本来無いのだから。