蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№340 どこにいても安心

自分がどうみられているか気になるだろうか?
初めての方が教室に来られてレッスンに参加するとき、当然ながら勝手がわからず戸惑われる。

ヨーガの役目は「人に打撃を与えること」であり、ある状況の中で自分がどうふるまうか、冷静に見つめることができるよう意識を育てて欲しいとも考えている。

状況依存か独尊位か、ということについて昨日書いたけれども、いつでもどこでも、自分という主体をしっかりと持ち、間違ってもだいじょうぶ、不安でもだいじょうぶ、という心の姿勢を保っておられたら安心だ。

状況依存に関しては、興味深い事例がある。
これは、お茶の師が語って下さったことである。

表千家で茶を学ぶ自分が、異なるご流儀の茶会にお邪魔したとき、周囲にいる方々が自分とは違う所作をしているのに気づいたらどうふるまうか?
茶の湯は流儀によって所作がさまざまで、茶を頂くとき茶碗を回す方向も違う。もしかしたら隣のひとは回さないかもしれない。自分がこれまで習ってきたことと違うことを皆がやっていて、頭のなかが大混乱になる… そんなとき、どうするのが良いだろうか?

「自分の流儀を通しなさい」
これが師の教え。
周囲の人みなが表流の所作を知らず、「あ、あのひと、まわし方が間違ってる」と思われたりしたとしても、自分の流儀を貫く。それでよい。

茶の湯の名誉のために申し添えると、稽古をつまれた方々は、ひとのすることをあげつらったり嘲笑するようなことはぜったいになさらない。)

現代社会で茶道を学ぶ価値は、こういう点にもあると思う。
自分自身の型をたしかにもつことで、どのような場面であっても怖気づくことなく堂々とふるまえるからだ。

さて話を教室に戻そう。
初めての場所で、初めての動きをして、わけがわからず間違ったりついていけなかったりする自分のなかに、安心していることができたらどんなにいいだろうか。

多くの方は、初めてなのに「よくわからないから、できなくてすみません」と仰る。
わからないからこそこの場にやってきたのであって、できなくて当たり前なのだけれど、できない私がいけない、という考えを持ってしまっている。

私は学校が嫌いだったのだが、そこは「はじめてやることでも、うまくやってのけることで褒められる場」だったからだ(そんなことはない学校も、もしかしたらあるのかもしれないが)。

だから、じょうずにできることは好きになり、うまくできないことは嫌いになる。
でも大人になって、時間をかけて優しく教えてもらえれば、「自分にはできない」と思っていたことでもできるようになることを知った。

できないことは悪いことではない。
もし笑うひとがいたら、笑う方がおかしいと思っていてほしい。
どんな場面でも「だいじょうぶ」と思える自分に、体操を通じてなっていくことができる。