蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№270 夢の活用・考

こんな夢を見た。
今日も3本立て。そのうちの一つ。

和室で大勢の人が準備を整えている。庭に面した縁側から、当主が帰宅する。とても厳しい女性が差配をしていて、その家の作法に従わねばならないのだよ、と当主は笑う。
帰宅するとすぐに皆で演奏を始める。座敷に正座して、吹奏楽の曲を演奏するのだ。

私はサキソフォンのパートのひとりで、アルトの2ndらしい。1stではないのでそう難しくなく、なんとか初見で演奏についていくことができた。曲の中盤でサックスと金管の何かとの優美なソロパートがあり緊張したが、これも何とかなってホッとした。

演奏修了後、テナーを吹いていた男子が「俺はもしかして、ソプラノ(sax)を(曲の途中に持ち替えて演奏するために)持ってないといけなかったのかあ?!」と騒いでいたが、そんなことはなかったと思う。

…………………

昨晩寝る前に、週末から始まるゼミナールに備えて録音音声を聞いていたため、夢を見ている私が当然ながらそのことを勘定に入れている、そんな夢見だった。

ゼミナール受講に際して、夢を通じてのシャドウワーク実践について質問を行っていたので、それに対しての先生からの回答や、他の方の夢に関する質問への回答などが加味された自分。

明晰夢については、昔、河合隼雄さんの本を読んだことくらいの知識しかないが、ヨーガでは「夢を見ている自分も客観視」しようとするので、3本立ての夢を見るために、一つの夢を見終わった時点で、「よっしゃ、これこれこういうストーリーだったな。ポイントはこういう情景。忘れないようにしなくっちゃ。はい、次行って見よう!」と思っている監督としての自分がいる。これが明晰夢ってこと?

また、シータ波ってほんとに気持ちいいな、とか、上手に覚醒しなくては夢の記録が疎かになるな、などと「考えている自分」と「夢を見ている自分」が同時に存在している。考えている自分の方が、高次の自分であるように思う。

静かに覚醒の状態へ移行しないと、夢はあっという間に去って記憶に残らなくなる。
例えば、寝坊して飛び起きたというような状況だと、焦りや不安から脳波は即座に高ベータ波へ移行するものと思われ、そうすると夢見の状態での記憶は掻き消えてしまう。
夢の記録に挑戦しようと思っておられる方は、起床後の静かな時間が重要になるので、参考にして欲しい。

また、ヨーガでは「見ている夢の内容は変更できる」とも言われている。
最近はあまり怖い夢を見ないので自然な展開に任せているが、「あっちに行ったらヤバそう」な時には、素知らぬ顔をして逆方向に歩いていきたいものである。

就寝前に甘いものを食べると、悪夢を見やすくなると言われている。
クリスマスなどに、夜、ケーキを召し上がられる方は、その晩のロードショーがスリラー系になることを、楽しみになさるといいと思う。


しかし昨日の先生のお話を聴きながら、ヨーガと禅が分かれて表現される世界にどうにもなじめない自分がいると思う。しかし、これは私が「ヨーガ」というごく狭い世界に生きているからなのだろう。諦めて、世界の流儀に従わねばならないのかもしれない。

これは例えて言うと、表千家の私が、世間の人が「抹茶」と思っておられるフワフワした泡の立ったお茶を点てることに似ている。
表流の茶は「池に月影が映るような」茶を点てるのが良しとされ、泡を立てない。
しかし、呈茶席でのご奉仕で、泡を立てない茶を出すとクレームが来ることがあり、主催者様がお困りになるというので、そこは自分を曲げて、泡を立ててお出しする(うまく泡は立たないが)。

結論は「美味しければ皆、ハッピー」なのである。

それでよしとすることにしよう。ヨーガについても。
(こんなこだわりが残るところが、10年と20年という自分にとっての歴の差だと思う。20年やると、人がどう仰ろうと気にならなくなる。)

狭い世界に生きるYoginiにとっての用語解説:
禅=dhyana 即ち瞑想のこと
yoga=「深い眠りの中でしか経験できない世界こそが真実である」と思い定めて生きる、生き方そのもの
asana=ヨーガの体操のこと。瞑想のできる精神状態に導く便利な道具

№269

こんな夢を見た。
3本立てのうち1つ。

自宅から散歩に出た。(周囲の光景は境港に似ている)
てくてくと歩いていくと、自宅周辺であるのにあることを知らなかったお店などがたくさんあることを知った。最寄り駅の向こうには運河があり、古いフェリーを利用したカフェなどあり、賑わっている。(日記には地図も記載アリ)

運河沿いの道をのんびりと歩いていくと、フェリーも行き来する港に着いた。
そこでバスに乗ってさらに先に行こうとすると、午後からは雨が強まり、バス、電車、フェリーもすべて運休することになるだろうとのアナウンスが流れ始めた。

午後には娘が早めに帰宅することを思い出し、帰途に就くことにする。
駅に知人Yさんの奥さんがいて、一緒に帰ろうと声を掛けるとひどく遠慮されるが、天候が心配だからと説得して連れて帰ることにする。なぜかヨガマットを2本持っていたのを、駅に忘れていたとのことで、1本だけ駅員さんが届けてくれる。残り1本は、後日取りに来ることを約束し、預かってもらうことにした。

不思議な三輪車を借りることができたので、前にある巨大なかごに連れのみんなを乗せて、キコキコと漕いで帰り始めた。

…………………

今日は少し哀しい出来事があった。最近哀しいことが多い。
こうやってブログというツールを使って世界に対して声を発する、というのは世界を多様に捉えるたくさんの人たちに対して、自分の頭の中身をさらけ出す行為だが、「今こうしている自分の心を、頭の中で再構築して」取り出している訳であって、教室などで目の前の方と対話し合うのとは違う。

こうやって書いている文章で誰かが誤解をしたり、腹を立てたりしていると思うと(逆もあるだろうが)しょんぼりしてしまうが、これが実践ということなのだろうな。

私はここで「何がいいとか悪いとか」、そんなことは決して言わない。
物事には両面があり、絶対的なことはないということ以外の真理はないと思う。
インテグラル理論というのは”何か別の新しい習い事”ではなく、「すべての視点に一理ある」とする多角的な視点そのものなのだから。

ただ、現時点での、自分の意見の表明も行っていく。
批判的に世界を見て、今の立ち位置での一つの判断を持たなければ、改善もしていかれないから。
そして10年の間に何度も、後々「自分はバカだったわ」と思えるような生き方をしていきたい。

№268 対立を超越せねば

こんな夢を見た…?
夢メモの記載があまりにも簡単すぎて、内容を思い出せない…

以前乗っていた車のナンバーは22-58。
年賀状は3枚。
価格は17000円。
…………………

数字は忘れてしまいそうで、その他のことは忘れない自信があったとみえる。
こういう時にしみじみと、夢見の時と通常の意識状態の違いを感じる。
今晩の夢の中で、思い出せたりするかもしれない。

さて、今、これまで数年勉強してきた組織についてのアラが見えてきて、ビックリしている。しかもこれを感じているのは私だけではないらしく、あちこちからチラホラと「小耳」に挟むなあと思っていたら、自分も小さなトラブルに巻き込まれてしまった。

こういうことがあると、なぜ自分がインテグラル理論に向かったのか、よくわかるような気がするのだ。

「えー、参ったなあ」と思う度に、どこかに所属することをやめていたら、私は天涯孤独の身になってしまうだろうし、同時に、消耗するような関係性の中に絡め取られていては、葛藤が高じて退行してしまいそうである。

同じようなことに巻き込まれて苦しんでいる人を見ると、「今こそインテグラル理論に触れてごらんよ」と思って見たりする。

でも物事には、常に二極の両面がある。
二つのものごとの、対立を超越した視点を獲得すること。
こういうヨーガを、今こういう時にしっかりやり抜かねばならない。

そんなことを思っている、ここ数日である。

№267 越後の獅子は

こんな夢を見た。

大きな旅館で合宿をしている。古く、作りが複雑である。幾人もの先生がおられる。
あちらこちらへ移動しながら、講習や試験を受けねばならない。
高齢の先生のご体調を気遣い、早く休んで頂くよう取り計らう。
旅館の奥には神を祀るところがあり、夜半そこに額づいて礼拝をする。

場面は変わり、ヨーガの講習を受けようとしている。皆で手分けして座布団を運ぶ。
講習費をまだ支払っていない人は、登録カードをチェックしてもらうように言われる。私は大事な書類を忘れて、取りに戻らねばならなくなった。

トイレで二人の女性に会う。
「こんなやり方をしても治らないのに、役に立たない方法をお金を払って習わなければいけないのは何故なのか」と話している。3人ともその意見に同意し、「こうするとすぐに改善するよね」と互いに教え合う。

場面はすっかり変わる。
十二単を来た女が前を歩いている。彼女は妻だという。なぜか私は「殿」と呼ばれている。
小型の冷蔵庫を、肩掛けバッグを持つように小脇に抱えて運んでいる女性がいる。
長女が現れ自分の髪を指し示し、「右側だけが長くアンバランスだったので、左右が揃うように切り揃えました」と言う
…………………

さて、今日は年内最後の稽古日(筝曲) …のはずだった。

来春の演奏会の曲目「越後獅子」を、よくここまで仕上げたねと、珍しくお褒めの言葉を頂いてとってもいい気分だったのだが、兄弟弟子と一緒に再度稽古に来て合奏するよう申し渡されてしまった。なので、年内にもう一度お稽古。

この「越後獅子」を、来年秋の演奏会でも演奏できることになった。
同じ曲を1年以上も稽古し続けることを厭う人がいるようだが、やってもやってもやり尽くせないのが古曲の魅力だと思う。

長く稽古を続ければ、もっと洗練された演奏が出来るはず。
今は気付けないことに、半年後には気付くことができるかもしれない。
芸を磨くことに飽きるということはないから。

⇓ NHK[邦楽のひととき」の録音をご紹介する。
 ノイズが入っているのが残念だが、素晴らしい演奏だ。

0:54から「越後獅子」の演奏。この曲は、歌詞がとても面白い。

6:00から少し緩んで、♪いて唄ふや獅子の曲 という歌を境に、華やかさが増していく。
13:13~13:47あたりが「散らし」と呼ばれる部分。ノリにノッていく部分。
考えていたら弾けない。楽譜を目で見ているがすぐに手に下ろす。もしミスしても構わずに、即座に立て直して弾いていく。

とにかく、弾いても歌ってもとても楽しい。
年明けからは合奏が本格的に行われるので、それまでにしっかり仕上げていかなくては。


youtu.be



№266 何回目でも、新たな

こんな夢を見た。

友人と二人で歩いている道の右手下方に、大きな露天風呂が見下ろせる。パムッカレのように、いくつもの湯船が繋がり合っている、壮大な湯だ。
その道を通り過ぎて、大きな講堂のような施設に行く。
そこで研修を行った。
鉄工所のオーナーたちと色んなことをやるのだが、最後はみんなでハグをし合うというワークを行って終了した。

場面は転換して、今度は車に乗って大宴会に向かっている。
運転しているのは友人の〇さんだ。交差点で信号待ちしている時にエンストしてしまうが、ウキウキ気分はそのままだ。〇さんの息子さん(幼児)にとてもなつかれる。
宴会では新入社員2人の女子を、総務のKさんが紹介していた。
そこから、急遽、別の場所に向かわねばならないことになった。
次は「美津賀内」というお店で、電話番号は03-5524-2621だという…


さて、今日は、遥々出雲市から、友人が会いに来てくれた。
出雲市から一般道で米子まで来てもらうとなると、片道2時間かかる。
高速利用で片道1時間。遠いところやってきてくれて、本当に嬉しかった。

余談だが、米子から羽田まで旅客機で飛ぶと1時間20分。
ちなみに県庁所在地の鳥取市砂丘があるところ)にも、片道約1時間。
山陰は横に長いので、移動は大変。

その後、ヨーガ療法士のY先生と情報交換。
クライアントと向き合って課題解決を目指すために、療法士としての実力を養っていかねばならないが、その力は研修会などの決まりきったカリキュラムで育つか否かの議論。二人の意見は、否。

結局、個々の先生がそれぞれの人生を生きる中で、自身の目の前の課題に十全に向き合っていくしかないのでは、という結論になった。
人を受容していく力を身に付けたいと思う時、ヨーガの懐の深さに甘えて、ヨーガ以外の多様な実践を疎かにすると、自らの先生としての力は養われないのではと思う。

なんだかんだ言っても、ヨーガの先生って、なんとなくそれでやれちゃうがっかりな職業なんですよ。
バラバラと集まって、ただ先生がやりたいように体操やって、終わればそれで帰っていく、そんなクラスがたくさんあるんだと、後輩のK先生が教えてくれた。

「K先生は、どんな先生になりたいと思っているの」とお尋ねしたら、上記のようなことを話してくれて、「自分はそんな先生になりたくない。生徒さんの求めるところに、ヨーガで向き合う教師になりたい」と話してくれた。

以前、鳥取県で一番勉強している先生になるんだ!と思っていた。
今は… 「こんな先生はなかなかいないんじゃないか?!」と思ってもらえる先生になりたい(色んな意味で)。

もっと欲を言うと、一緒にヨーガすることで、カミナリが落ちるような気付きが腹の底からやってくる、そんな教えができる先生になりたい。

誰にでも、何度目であっても、新たな気付きを与えられる、そんな先生になるぞ。

 

№265 意識的に

こんな夢を見た。

大きな宴会場で、みんなが大喜びして何かをお祝いしている。
宴会場はホテルのようなところではなく、食堂のようなところ。
(想像がつく人がいるかわからないが、自衛隊の隊員食堂のような。床はコンクリートでいくつものテーブルが並んでいる)

その人波に後から加わって、えらいこと盛り上がってるな~と思いながら様子を伺う。
背の高い男性の後ろから、人の輪の中心を見ようとするところで記憶は途切れた。


さて、本日は米子での瞑想講座だった。
量子力学の、ものすごーく簡単な本を題材にして、ヨーガの教え「この世は迷妄である」「二極の対立を超越せよ」「結果に対する執着を捨てよ」について考察した。

ヨーガの体操の際には、「意識化」ということを非常に大事にする。

ヨーガを行じていって最終的に辿り着きたいところは ”解脱” Mokshaの境地である。
凡人はそこまでは行けないにしろ、「天上天下唯我独尊」の心境には至りたいものだ。
この境地を別の言葉で表現すると、PTG(心的外傷後成長)の状態と言えるし、バカボンのパパだと「これでいいのだ」、私流に表現すると「なにか文句あるか」の境地である。

意識化の活用法は色々あると思うが、大事な点の一つは「自分で決めて、動く」ことだと思う。

人は無意識に、他者の指示に従って生きていることが多い。
自衛隊のような「命令に従う義務」なんてないのに、誰かが言った根拠のない言葉に縛られて生きている人は実はすごくたくさんいる。従っている訳ではなく、拘りをもってしまうことで縛られているのだ。

教室では「自分がどのように感じているのか」をしっかりと感じ抜いていくことが大切。嫌だなと感じたり、気が進まなかったらやらなければいいのである。
気持ちよければやる。やりたいからやる。

「右手を上げて」と先生が言ったからやるのではなく、「先生が言ったことに従ってみることを、私が決断した」からやってみるだけだ。

そもそもヨーガ教室で、先生の真似をしたりする必要は全くない。
『自分はどれだけ自分の感覚を感じているのか?=どれだけ自分の事を知っているのか?』という、「自分センサー」の感度をどんどん上げていくことこそ”ヨーガ”だと私は思っている。

意識的にやる。意識的に歯を磨く。意識的にものを口にする。そこに”いる”ということに対して、意識的である。
形だけ座る瞑想よりも、今、十全にここに存在していることの方が、私の在り様を変える。そう思っている。

№264 点、線、それから

今朝の夢。

とある実在する会の講師だという実在しないおじさん(推定60代後半)が、東京で行われた講習会で、「あなたがうまくいかないのは、私どものいうことを真剣に受け容れて実践しないからです」と言って、私のおでこを小突いた。

そこで私は激高して、そのおじさんの靴を両方ともむしり取るように奪って、靴のかかとの部分でおじさんの頭を叩き、「そんなことがある訳なかろうが!」と叫びつつ怒り狂う。一緒にいた友人Sを始め周囲にいた人たちが、私を止めに入る。
鼻息荒くその場に立ち尽くす私は、「やはりこれ以上、この会との縁を続けることは無理があるかもしれない」と考えた。

その瞬間、階下で「ありがとうございました~」という娘の声が聴こえ、今日は某校の合否がわかる日だったことを思い出し、強引に覚醒状態に引き戻され心拍数が上がるのを感じた。二階に上がってくる娘の足音を聞きながら、どういう反応で応えるか覚悟を決めてみたが、単に昨日配送を注文した物が届いただけだった。

この夢は、現在の自分の懸念を如実に表している。
何年も継続する学びをしていれば、人は成長して当たり前(のはず)だ。(理想としては)
成長して世界観が変化した者を相手に、組織側や講師側も進化できなければ、学ぶものはその箱というか場自体を変える(移る)必要があるだろう。
そこを、このおじさんのように問題を単純化して、学ぶ者の側に責任転嫁しながらお金をむしり取る組織は多いんだろうなあ。私はこれまで「誰かから何かを学びたい」という欲が大きかったが、そこを卒業する時が来ているのかもしれない。
おじさんが何の象徴だったかは、じきに分かることになるだろう。

さて。
昨日ふと思いついたのだが、ヨーガも、発達と同じく、点から線へと変わっていくようにその実践が変化していくんだよ、と説明したら分かりやすいのかもしれない。

点がポーズ(姿勢)だとしたら、呼吸が加わって線になる。
そこに意識化と客観視が組み合わさって面になる。
面での実践ができると、療法としてかなりの効果が出ることを期待できる。

次元の違うそれぞれの取り組みに対して、この面を活用できれば立体になる。
立体になれば、調子がよくなるということ以上の「発達」という変化を実感するようになるかもしれない。

このことは、もっと詳しく、プロジェクト・チームの秘密のブログで文章化してみようと思う。

今朝の決意。自分の夢を題材に、「夢十夜」のような文章を書いてみよう。
夢をここに書き連ねることに抵抗があったが、ようやく「なんか文句あるか」気分になってきた。

なぜ先生は、ブログで夢について書いてみたら、と言って下さったのか。
そのことについて先日質問をしてみたけれど、自分でやってみないとわからないのかも。実際やってみてこう感じました、ということを通じて、自分のした質問も超越できるかもしれない。