蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№227 変化への伴走

本日は神戸でのレッスンだった。普段は宿泊して帰ってくるのだが、来週から長めの出張があるため、本日は日帰りとした。

皆それぞれ、自らの悩みを通じて、物事と真剣に向き合い、教えに出会っていく。
自分も通ってきた道であり、先達も同じようにしてこられたんだろうなと思う。

神戸のレッスンでは、皆様と出会うのは月に一度なので、メッセージを強く打ち出して少しでも記憶にとどめておいて欲しいと思い、ボードに文字を書いたり絵を描いたりして簡単な講義をする。

今日のトピックは「デフォルトモード・ネットワーク(DMN)」について。
主に内側前頭前皮質(mPFC)と後帯状皮質(PCC)にまたがる領域のことで、ここが活性化している時、心はあちこちに彷徨い、自分を中心とする思考や感情(主に不快なもの)を何度も繰り返し反芻している。
こんなことを無意識にやっていると、体にも当然影響が出る。

ヨーガの哲学でいうと、心素(チッタ)と我執(アハンカーラ)の働きを意識化して、離欲(ヴァイラーギヤ)に至らねば、という表現になるのだろうが、「いったいなんのこっちゃ」ということになるので、上記のような表現(言葉)を使わせて頂いて、PCCとかDLPFCというのは、脳の部位で、肉でいうとモモとかヒレとかいうようなもんだと思って下さい、聴いてすぐに忘れてもいいですからね、という感じでお話をしている。

とにかく、また来月お会いするまで、少しでも雑念を押さえて、何か(呼吸とか)に集中する時間を1分でも多く作って欲しい。そして免疫力を保って、具合の悪い人は元気に、元気な人はもっと元気になっていて欲しい。

今、あまり多くの人に指導せずに、お一人お一人と深く関わらせて頂いている。
転院のご相談に乗り、詳しい相談に乗ってくれる医師にお繋ぎし、子供さんの結婚式にまつわるエピソードについて対話をする。
知り合いの医師によると私は厳しいそうだが、何となく指導をし続けるのは嫌である。本当は「変わりたい」と思っている人は多い。何とかお役に立ちたい。

№226 帰国

次女が修学旅行から戻った。
生まれて初めての海外旅行を経験し、興奮気味。
開口一番、「お寿司食べたい!」。
いつもいる子が家にいないと、随分寂しいものだ。
嬉しそうに旅の思い出を語る様子が、愛らしくてならない。

さて、今日は急に冷え込んで、朝は7℃だったとのこと。
もう暖房が必要になった。

なんだか今日は随分と疲れている。
昨日、「八甲田雪中行軍遭難事件」について色々と読んでしまったからだろうか。
三連休に事務仕事をやり過ぎたせいだろうか。

ともあれ今日は頭が働かない。
明日は早朝から神戸に出張。




№225 茶会 2019秋

毎年この時期に、市の茶道連盟が主宰する、大寄せの茶会がある。
今年は米子市公会堂を会場に、五つのご流儀がそれぞれ茶席を持たれた。

米子市表千家は三社中あるため、三年に一度、茶席を受け持ち、釜を掛けることになる。我が社中は来年が当番。今年はお客様として、お席を回らせて頂いた。

「お客ぶり」という言葉がある。
良いお客様としての振る舞いや、その心得のこと。

初心の頃は点前ができることが嬉しくて、意識はそこにばかり向かっていた。
「自分がする点前」が最大の関心だった。
少し時間が経過すると、人をよく見るようになり、美しいお点前や所作に憧れの気持ちが湧いてくるようになった。「あの方のようなお点前がしたい」「あのような振る舞いを真似たい」という、型に対するイメージが明確になる。

教授者講習への参加を許されるようになり、内輪のお席で「正客」という”一番えらいお客様”のお役を経験させて頂くと、ご亭主がどのようなお心でこのお席をしつらえて下さったのかや、そのお心づくしを汲み取れなければならないことが理解されてくる。
ここで「お客ぶり」が問われる。

「お茶の一番のご馳走は、会話」と言われる。
お席でのお道具の組み合わせ(道具組)や設えには、そのお席のテーマがある。例えば、お祝いなど。
迎える側がどんなに心づくししても、正客からお尋ねがなければ、自分から語ることは許されない。
他の客がどんなに聞きたいことがあっても、直接お尋ねすることは許されない。
もし正客の気が利かなかったら、席中の皆が不完全燃焼を起こしてしまうだろう。
お茶の稽古は「トーク」の稽古でもあるのだ。

席が盛り上がる会話をするためには、知識や経験が総動員される。
何が凄いのかがわからなかったら、尋ねようもない。
なので、先日のように、わざわざ遠くへ出かけてでも、色んなものを見て学んでおかねばならない。

本日のお心づくしも各席様々で、この秋の美しさを愛でたり、御代替わりを寿いだりという意図を、それぞれのお道具組で美しく表現なさっておられた。
伺った席のすべてで我が師匠は正客を務められたが、時にユーモアを交えながら、大寄せという初心者の方もおられるお席で、同席した皆が寛げるような、そしてご亭主のお気持ちを引き出すような対話をして、その貫録をご披露下さった。

今年、台風で大きな被害を被られた地域とそこに住む方々に思いを致し、今こうして何事も無く、お茶を楽しませてもらえる自分たちの幸せに改めて感謝をする、という設えで迎えて下さった煎茶・一茶庵さまと、細川三斎流さまは素晴らしかった。
「無事」という掛け軸に、すべてが表されていた。

昨夜、遠方の方が、こちらの天候を心配してご連絡を下さった。(山の近くで竜巻が発生したとか!夜半にも突如すごい風雨になった。)
ご亭主の思いをお聞きしながら、台風や地震に遭われたからこそのお心遣いだったと気付かされる。
お相手のお心を推し量る自分の度量は、まだまだ未熟だなとしみじみ感じた今日。




№224 目を閉じないとわからないもの

昨晩は合奏だった。

普通のお箏は弦が13本ある。
17本の弦を持つ大きくて低音のお箏もあり、そのまま「十七絃」と呼ぶ。
箏(13弦)2パート、十七絃、尺八での合奏。

この度の担当は「二箏」と呼ばれるパート。「一箏」より少し難しい。
昨日の合奏では二箏パートの人数が少なかったので、バランスが悪かった。必死で大きな音で弾くよう努めた。

この曲を始めて弾いたのは平成24年5月、と楽譜に書き込みがある。
先代のご宗家が作曲された、流儀にとって大事な曲であり、試験の科目でもあるので、本部定演も含めて何度も演奏してきた。

途中で転調があるため、弾きながら、歌いながら、4つの琴柱(ことじ)を動かす。
これがなかなか難しい。
転調に気を取られると手(演奏)を間違えそうになるし、4つの柱(じ)をどの順番で動かしていくかということも、曲の流れの中で決めて行かねばならない。

まあでも、この曲は何度も演奏してきたので…
今、三弦では「越後獅子」を稽古中。
後半の「散らし」と呼ばれる部分が、滑らかに華やかに弾けるよう、繰り返し練習している。

先日、師匠や姉妹弟子と「お箏と三弦のどちらが好きか?」という話になった。
お箏は大きくて持ち運びが大変なので、演奏会に出るには三絃がいいという意見や、始めから三絃がしたくてこの道に入ったという方も。

私自身は華やかな筝が好きだが、最近少しずつ三絃の魅力にも目が開かれてきた。
三絃の稽古を始めた頃は、とにかく難しくて、ツボが取れずに泣きそうになったこともあった。左手でツボを押さえ、右で撥(バチ)を扱う訳だが、最初はこの撥が上手に扱えなくて大変だった。

撥は、押すように弾く。
3本の弦を手前から弾いていったときに、自然に手首を動かすと、弧を描いて下方に向かうことになりますよね?
それを、まっすぐ前に出すように、押していかねばならない。
始めはそれが出来なくて苦労したなあ。
また、バチを弾く位置が下がるとヘンな響きになる。今もうっかりすると師匠に、「バチ(が下がっていますよ)」と声を掛けられる。

「体得」は頭で勉強してもできるものでなく、時間が必要。
でも逆に、時間をかけて努力すれば…という希望もある。
ともかくいつも、目の前の曲に取り組むだけ。

茶道や筝曲が、ヨーガ指導に大いに影響を与えていると言って下さる方があるが、自分では正直言ってよくわからない。
ただ、筝曲は視力を持たない方の才能が遺憾なく発揮されてきた分野でもあり、感覚器官(特に目)の働きが、未知の能力の発芽の機会を奪っていることを思い知らされるということがある。目がお見えにならない方の演奏を聞かせて頂くと、筝曲の世界では目が見えることが足かせになる、と感じたものだ。

なので、ヨーガ実習でも、目に頼らない豊かな世界を、自らの感覚で感じて欲しいという思いが、他の先生よりは強いかもしれない。


№223 受け容れること

今朝、非常に親しい友人との間で交わされた対話が、とても学び深く豊かだった。
数日前にある方が、Facebook投稿で「受容力」について書いておられて、その文章にも深く考えさせられた。
どうやら私の最近のキーワードは「受容力」ということのようだ。
あちこちから「受容」についてのサインが届いてくる。

知的な事柄と縁のなかった私は、身体的な活動を通じて智慧を与えられてきた。
他者や、自分の外部にあると思うものを”受け容れる”ということは、頭で理解してできることではないと思う。

腹の声に従って生きると、「他者の期待」なるものを裏切る顛末になることもあるが、自分に嘘をついて生きると大変なしっぺ返しを食らう。このしっぺ返しに比べると、人に批判されることなど何ということもない。自らの身体感覚を信じつつ、物事を進めていくのが大切だと思っている。人に理解されようと思ったりすると、腹の声が聴こえなくなるので、感覚器官(耳やら目やら)も良く制御しておきたい。

多くの人は、自分のものであるはずの肉体とも、感覚的に切り離されていることが多く、肉体があたかも「近くにいる他人」のようになっていることがある。
「その人(からだ)は、いったい何を考えてそうしているのかさっぱり分からない」という状態になっており、調子よく動かない場合などに「何とかして貰えませんか?」と他人(お医者さんとか)に丸投げしようとすることもある。

また、丸投げすると先方から様々な提案がある訳だが、自分の根っこと繋がっていないため、明確な答えのない選択肢に対して恐れをなして、心を決めることができない。
ヨーガ教室で、こういう方々に出会うことがある。

ヨーガは体操以上のものなので、こういう場合にももちろん対応をさせて貰う。
ヴェーダーンダやスートラに「心の健やかな在りよう」が明記されているので、繰り返しその話をして、最後は自分を信じるように促す。

自分の体なのに他人とは、なにやら矛盾した表現なのだが、ずっと前からそのように感じてきた。知らない人が何をしでかすかわからない恐怖みたいなものを、自分自身に抱いているような気がするからだ。これはかなり怖い状態だと思う。

悟りを開くとあらゆるものとの境界線は無くなる(らしい)。まずは、自分の肉体や心との境界を無くすような取り組みをしていきたい。

先日、渡辺謙さんが、これまでのご自身について「自分で何かを規定せず、設計図を持たず、『え、そんなことやらせんの?』というものに取り組みつつ、流れでやってきた。」と語っておられた。流れに任せるが、すべてを断らないということではないよ、と仰ったのが印象的だった。

腹に聴こう。それで失敗しても、自分を責めたりしないでいよう。
そもそも成功と失敗だけで物事を見るのをやめよう。

№222 健康ってなんだろうか

今日は某ハム会社さん同好会のレッスン。
健康と病気の境目には何があるか、という話になった。

調子は如何ですか? とお尋ねすると、
「まあまあです」や「元気ですが、どこそこが痛いです」、というお答えを頂くことがあるのだが、そういうお言葉を聞いていると、正直言って暴れたくなる。

健康がまあまあでいいのか?!

健康と病気のあいだには、深くて速い「未病」の河がある。
本当の健康人はなかなかいない。
と同時に、身に病を持ちつつも健やかな人がいる。
健康を肉体の問題だけと捉えて欲しくないし、「所詮こんなもんだ」という諦めの気持ちで過ごして欲しくもない。

どうせ年だからこんなもんだ、という言葉を軽く口にする方たちがいる。
また、自分の体のことなのに、自分がどうしたいかをはっきりと決められない人も多い。

ヨーガ教室に来る時に、「全人的に健康になりたいです」と言って来られる方はいない(残念ながら私の所には来られたことがない)。

元気?
と尋ねた時に、高いレベルで自分自身の健康について語れる人が増えて欲しい、という野望を持っている。

今日私の大事な友人が、体調不良で診察を受けていることを知った。
「でも全然元気だよ」という言葉に葛藤を覚えた。

いつもとほんの少し違うことが体の中に起きている時、それを確かに感じ取れる感度を持つ人を一人でも多く育てていきたい。
そして、グルグル回る思考で自分の心身を痛めつけてしまうことをしないように、練習してもらいたいと思う。

さて、昨晩、マイスター・エックハルトの「神の慰めの書」を読了した。
「光は暗きに照る」
人々が暗きに迷い苦悩にさいなまれる時こそ、まさに彼らにとって光を仰ぐべきときである。

自分が何となく健康だということにしていると、光を仰ぐ行動に結びつなかい。
多くを求めて欲しい。

№221 パタンジャリ先生

今日は次女ネタから。
次女が修学旅行に出発した。
当初、香港・マカオの予定だったのだがこんな情勢で行けるわけもなく、台湾に変更になった上、気の毒なことに日程も短くなった。とは言え、初めての海外旅行にワクワクしている様子がビンビンと伝わってきて、傍で見ていてとても微笑ましかった。
色んな経験をしてきて欲しい。

さて、2年半前に受験した試験のテキストを再読している。
「インド中央政府ヨーガ指導者資格試験 オフィシャル・ガイドブック(日本語版)」1~3巻。

「ヨーガという言葉は、現在では別のものを指している」という記述がある。
『ヨーガに関する誤解』という部分だ。

30年前にヨーガを学んだものからすると、本来の伝統からとても異なるものに変化している、という。「ヨーガを単なる運動として考える人もいるが、ヨーガはそれ以上のもの」という、「それ以上のもの」という表現に思いがこもっていて、とても好ましい。

「ヨーガって、そんなんじゃないんですよ!」と言ってしまっているのだが、「それ以上のものなんですよ」という表現の方が美しいな。これからは私もこんな風に言うことにしよう。

はい、ではヨーガってなんですか?

心理、肉体、宗教性を統合し、自己実現の状態に達することを目的とする、壮大な自制法である。

という、表現を始めとして、いろんな人がいろんな表現でいろんなことを言っている。

「ヨーガは結合であり、paramatoma(神我)と jeevatoma(個我)との合一である。」という表現はかなり固くて、伝える人を選びそう。

さて、昔々、パタンジャリ先生という偉大な人がいて、ヨーガの九つの障害というものを定義されている(ヨーガ・スートラⅠ-30)。
この九つのせいで心が乱れる。

1. 肉体の病気
2. 無気力
3. 疑い
4.不注意、優先順位を間違えること
5.怠惰
6. 渇望、頑固な愛着
7. 新たな境地を見出せぬこと
8. 心の不安定さ

心が乱れると、こんな兆候が表れる(ヨーガ・スートラⅠ-31)
 苦悩、落胆、手足の震え、荒い息遣い


このようなことの他にも、「心をきれいにするには」「煩悩ってなんだ」などという興味深い話題が満載。とはいえ、読んで理解するのは難しいなあとつくづく思う。

ヨーガを勉強していると「神様」について言及されることが多いのだが、この「神様」は「自在神/イーシュワラ」といい、宇宙の創造、維持、破壊の機能を果たす。

ヨーガ・スートラを編纂したパタンジャリ先生は、このイーシュワラを「特別なプルシャ(純粋意識)」と定義していて、これまでもその姿形を現したことがなく、これからも決して具象化しないものとしている。時間によって制限されることもない。
この神は宗教的な神ではなく、ヨーガ・スートラにも礼拝や儀式に関する記述はない。

「神」という日本語が誤解を生じさせる?
神って言われると、イメージが固定されてしまいそうになる。
もうそのまま、イーシュワラとかプルシャという「力/エネルギー」と言ってしまったらどうだろうか。

などということを、テキストを読み返しながら考えていた。
娘の乗った飛行機は、四国の高松空港から出発。
今頃はもう空の上。