蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

No.213 好み物展を拝見して

本日は早朝より、師匠のお供をして京都へ出向いた。

表千家 猶有斎お家元宗匠と而妙斎宗匠のお好み物展が、京都高島屋にて本日より開催、その展観に伺った。

先年、猶有斎宗匠表千家不審菴十五代を襲名なさった。
襲名という一生に一度限りの機会、お家元として初めてのお好み物展に接することができて光栄であった。

ご縁に恵まれて、お茶の道で稽古させて頂いてきたが、これまで目にすることができたもの、経験することができたものは私のなかに確かに残り、決して奪われることのない宝となっている。

若い頃には道具の価値などは理解できず、ただ点前の稽古ができさえすれば良かったのだか、師匠のお導きで職家さん方にお目にかかったり、様々な道具について学ばせて頂くなかで、道具というものに精魂を込める方々のお心が少しずつわかるようになった。
道具を単なる物として見ていた視点から、道具は職家さん、作家さんの魂の発露なのだという見方に変容していった。

そこからは、貴重なお道具を見る機会があれば、そのためだけに東京や関西に出向くようになった。
師匠と共に、職家さんの作品を見る場にお連れ頂くこともさせて頂いてきた。

お茶会などでは、師匠が所有される貴重なお道具を扱わせて頂くこともあるのだか、自分で道具を求めた経験のない者は、真の意味で道具を大事にできないとお聞きした。

高価なものではなくとも、自分なりの好みものに出会い、惚れ抜いてそれを手に入れたとき、先生のお言葉の意味が、ほんの少し理解できた気がした。

自分にとっての宝であるお道具でお茶を頂くのは最高に贅沢なのだが、その道具で、大切な人をもてなすのは更に楽しいのだという。

私はまだ茶事を催したりしたことはないが、いつか自分が惚れた茶碗で、大切な人たちにお茶を差し上げたいという夢を持っている。

実を言うと、私はこれまで自分の不足な点ばかりに注目して生きていたような気がするのだが、自分のなかに、お師匠さま方が育てて下さったものが、確かに積み上げられてきていることをしみじみと感じた。

有り難い、そして嬉しいというこの心持ち。
お稽古してきて良かったな、お師匠さまにお会いできて良かったなと、温かいものが私の身体を巡る。

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№212 まだ見ない景色

本日は午前中に大事なミーティングを終えた後、あれこれと小さな用を済ませた。
夕方は筝曲の稽古。
稽古は月に3回ある。箏と三弦の双方を稽古させて頂く。
楽器はお借りするが、爪と撥(バチ)は自分のものを持参する。
今は、3つの曲目を練習している。

来春3月、兵庫県西宮の芸術文化センターにて、菊井筝楽社本部定演。山陰支部の演目で「越後獅子」を演奏する。これは三絃で出演する。
来年(2020年)秋の演奏会は、菊井筝楽社・山陰支部40周年の記念演奏会。米子市
ご宗家をお迎えしての、大切な会となる。
露払いに宮城道雄先生の「都踊り」大合奏とのことで、前回からこの曲の稽古も始まった。これはまだ楽器はどちらになるか決まっていない。まずは箏で唄を付けていく練習をする。
来月の会で演奏する曲は、週末に合奏が始まったので、この場ではもうお稽古をしない。

さて、筝曲のお稽古はどんなものかというと…
お稽古場に二面のお箏が差し向かいで置かれており、奥が先生、点前が弟子、という配置になる。お箏も三弦も、椅子に座って立奏の形で稽古する。1時間近く稽古するので、足が痺れてしまうからだ。

そして、先生と一緒に弾く。
自分の譜面を見て、自分の音を確かめながら、先生の音(正しい演奏)にも意識を向ける。脳がフル回転している感覚。

目が見て、手が弾くのを、意識が観察している。
何かを考えると(「このハジキでいつも間違えるから、気を付けて上手に弾こう」など)思考が邪魔をして、手がミスをする。

家で一人で練習すると、うまくいかない時につい止まってしまうし、「あれ、これで良かったかな…」と考えてしまう訳だが、先生は止まってくれない。稽古では徹底的に訓練されていると思う。考えたって上手くならない。

これを繰り返していくと、だんだん目と手が慣れてきて、弾けるようになっていく。
筝曲は、1曲が10分以上かかる曲が多いが、少しずつ先に進み、いつか必ず終いまで弾けるようになる。

このことが、とても心を豊かにしてくれる。
諦めなければ、いつか必ず弾けるようになる。

あの曲もこの曲も、始めは歌と手(楽器)がてんでばらばら、家で練習してもおかしな具合に覚えてしまっていて、頑張りが仇になる、というような時を経て、「あの苦しみはいったい何だったのかな~」という晴れやかな気分に、一瞬はなる。
だが、改めて演奏してみると、やはり名曲は奥深くやり尽くすことは出来ない。
芸に終わりがないことを思い知らされる。それはそれは豊かな世界。

今日の私は、昨日より少し上手くなっているかもしれないが、行く道の先は常に霧の中のようにぼんやりしている。
ここでは、目は見えても、行く道の先は見えない。
遠くから師匠の呼ぶ声が聴こえるので、耳を澄ませて必死についていく。
振り返ると美しい景色が広がっている。
でもまだ見ぬ先の景色をもっと見てみたい。
そんな気持ち。

№211 生きているのか、生かされているのか

曇り空の1日。
また台風が関東地方に向かっている。二つも。
なぜ追い打ちをかけるような動きをするのか、憎らしいような気持ち。
この台風でどうか被害が出ませんように。

昨日、娘と二人でTSUTAYAに出かけた。
読書時に使用する蛍光ペンが切れそうだったため、散歩がてら出かけた。
ついでにDVDもレンタルし、「ペンタゴン・ペーパーズ」という映画を見た。

会社の存続までもが危ぶまれるような記事を掲載するか否かについて、議論が戦わされるが、メリル・ストリープ演じるワシントン・ポスト社主のキャサリン・グラハムは英断を下す。
役員はビジネスのことばかり言い立てる。自分の身にさえ、火の粉が降りかからなければいいのか。
ひどく醜く見える。

私たちの生きる世界でも、経済が大きな力を持つ。お金がないと、しあわせも買えないかのような表現をする人も多い。本当にそうかな?

幸福は無条件。
お金がなかったら奪われるようなものが幸福と言えるか。
条件により不幸に転じてしまうようなものを、幸福とは呼ばない。

条件を多くし、「これを理解していれば、もっと良く生きられますよ」「他のものよりもずっと役に立ちますよ」と、いうようなものが多いように見えて辟易するけれど。

「本質ビジネスは売れない」と、何度も言われたことがある。
さて、私はビジネスがしたいのか。儲けたいのか。
信じるところを伝えたくてたまらないから、仕事をしているのか。

鈴木俊隆師が、「法輪と食輪」という言葉で、すべきことをして生きる時、必ず生かされるということを語られている。
この言葉の方を、信じていたいという気持ちでいっぱい。

№210 芸術と美味しいものの秋

昨晩は久々の合奏に参加した。

11月に、鳥取県西伯郡南部町のとある地域で行われる「収穫祭」に、毎年、お姉さん弟子の社中が参加される為、助っ人として演奏に加わる。
土地の野菜や、手作りの美味しいものが売り出されたりするので、それを皆さんと一緒に頂いたりすることも楽しい。

ちなみにこの南部町は富有柿が有名で、よく見ると街灯も柿の形。
この街灯、ふるさと創生事業の1億円で作ったらしいです…

この町では、毎年11月に「柿の種飛ばし大会」がある。1等はハワイ旅行。
鬼太郎で有名な境港市が、「ゲゲゲの鬼太郎 下駄飛ばし大会」というのをやっているが、柿の種飛ばし大会の方が歴史は古いらしい。

詳しくはこちらをどうぞ。

https://rurubu.jp/andmore/spot/20000643

 

ところで合奏について。
この度の演目は、先代宗家が華道家の委嘱により作曲された「いけはなの曲(秋)」。

「そも いけ花は 古より 陰陽五行 天地和合の道とかや」

という荘重な出だしから始まり、転調して爛漫の春を歌う「春」、淑やかに美しい「秋」という二つのバージョンがあって、その季節に相応しいものを演奏する。

季節の花々の名前がふんだんに歌詞に散りばめられ、大きな演奏会では、舞台上で大きな瓶に花を活け、曲が終わると同時に花も活け終えるというパフォーマンスを披露することもある。
それはそれは華やかで美しい曲だ。

試験曲でもあるこの曲は、これまでも度々演奏する機会に恵まれてきた。
本手と替手、と呼ばれる箏の二重奏に、十七絃という低音のお箏、そして尺八と合奏する。歌が付いているので、箏を演奏しながら歌を歌う。

何度も何度も演奏してきたのに、やはり難しい。
同じ曲を何度弾いても、満足は出来ない。曲を弾いて飽きるということはなく、もっと上手に弾きたいといつも思う。

真の遊びは時間もかかり、究めがいのあるものだと、この二つの道を通じて教えられた。大変なことがないとは言わないが、涼しい顔をして「ああ、楽しい!」と、一生言い続けたい。


№209 場の力

今日はお茶のお稽古日だった。
文化センターでのお稽古のお手伝いをさせて頂くのだが、3カ月ほどお休みさせて頂いて、先週復帰したところだ。

新しい土地で先生に出会おうとする時、NHKや新聞社などが運営している文化センター(カルチャースクール)は、伝統的な芸事に関してはその土地で一番の先生を配されていることが多い。
健康教室などはそうでもないと思う。何しろ私も駆け出しのころから教室を持っていたくらいだから(推薦は頂いたが)。

私もこの土地にやってきて、この文化センターで先生に出会った。
すぐにご自宅での稽古をお許し頂いたので、在籍期間は短かったけれど、不明な点が多いうちは非常に便利だ。娘も、小学5年生のときから、ここで正式なお稽古を始めた。

ということで、思い入れも大変深いし、ご自宅でのお稽古とは違って、準備や片付けまでさせて頂ける(水屋仕事、という)。
これがとても良い勉強になるのだ。

ところが最近、在籍人数が少ない。以前は人がひしめくようだったのに、とても残念なことだ。
皆さんもある程度の歴になると、順次ご自宅でのお稽古に移っていかれるので、仲間が減った訳ではないのだが、文化センターでは出来ることに限りがあるので、仕様が無い面もある。

今は子供たちが頑張ってお稽古をしている。
1年生の女の子が二人、もう釜の前に座って、美味しいお茶を点ててくれる。

でも、2時間のお稽古のあいだ、1年生の子たちがずっと集中しておられるわけもなく、約3カ月ぶりに伺うと、なんだか無法地帯のようになっていたのだった。

こういう時、師匠が厳しくされると、子供たちは辛くなって辞めてしまう。
なので、師匠は絶対に厳しいことを仰らず、「待ち」の姿勢で時間をかけて育てて下さる。

自分も後から振り返ると、赤面するような恥ずかしいことがたくさんあるが、焦らずのんびりと育てて頂いたからこそ、「お茶大好き!」と言えるようになった。たぶん今の自分の事も、後々振り返ると赤面すると思う。

こういう時に大事なのが、「場の力」だと思う。
はっきり口で注意されたりする訳でないが、雰囲気で「あ、今のはやっちゃいけないことだったんだな」とか「ああ、そんな風にするといいんだな」「ああいう動きはカッコいいな」など、人の振る舞いや様子から無言の教えを受ける、それが場の力かなと思う。

今の文化センターのお稽古では、大人の人口が子供の数より少ないがために、この場の力が発揮できていない状態になっていた。
数か月休ませて頂いたことを、本当に申し訳なく思う。

なので、先週から気を取り直して、子供たちに対して「先生ではない大人」から気を発して、あれこれ話しかけたりしている。
様々な世代の皆が、うまく調和し合ってお稽古させて頂けるといいなあと思う。
「北風と太陽」の太陽のような、先生のご教授に心から感服しつつ、皆で「喫茶去」だなあ。










№208 その後どうなったのか 

 昨日、「怪奇小説傑作集3」を再読していたら、非常に印象深い作品に出会った。
以前読んだ時にはさほどの印象を覚えなかったようで、あまり記憶に残っていなかった。
イーディス・ウォートンの「あとになって」という作品で、自分の思いが及んでいなかった、配偶者の影の部分に出会わざるを得なかった女性の話。

この作家はピュリッツァー賞も受賞した人なのに、作品はすべて絶版になっている。
映画「エイジ・オブ・イノセンス」の原作を書いた人と言った方が分かりやすいだろうか。

この「あとになって」の読後感が最高だったので、他の作品も読みたくなったのだが、幸いなことに図書館ですぐに手に取ることができた。田舎の図書館では恩寵ともいうべき幸せ。「幽霊」という短編集だ。

「怖さ」という感覚を、どういった点に感じるかは人それぞれだと思うが、私の場合は「閉じ込められる」という状態に恐怖を覚える。
自分が閉じ込められる怖さ、というよりも、誰かが閉じ込められているのに誰も救い出せない、救い出さない、という心理的な恐怖。

以前、山の町で頻繁にレッスンをしていた頃、図書館に入りびたりだったことがあって、夏を前にしたある日、図書館員の方から「怖い本を紹介して」と声を掛けられた。
そこで私が紹介したのは、バルザックの「グランド・ブルテーシュ奇譚」で、今もこれ以上に怖い本はないだろうと思っているのだが、案に相違して「怖さとして高度過ぎる」と言われ、却下されてしまった。

共感はされなかったものの、これは「閉じ込め系恐怖」の最高傑作であると思っていたのだが、この度「祈りの公爵夫人」というウォートンの作品に出会った。
ぼかしっぷりが際立っており、読み様によっては煙に巻かれて終わりそうでもあるが、私のように「閉じ込め恐怖」に敏感なものにとっては思わず放心してしまうような名品なのであった。

「え?」と思い、前のページを改めて繰る。でもやっぱり…。あゝ…。
そういう感じです。

他には、ロアルド・ダールの「天国への道」も怖い。
初めて読んだのが原著だったので、自分の英語力が不足しているために、結末を間違って理解してしまったんではないかと思うくらいゾッとした。後に、翻訳を読んでみたが間違いなかった。

でもどの作品も、はっきりと語っていない訳だから、閉じ込められることよりも「ぼんやりとした謎」こそが怖いのかもしれない。
自分のなかにも、ぼんやりとした謎があると思う。
そこに方便をつけて生きている訳だが、本当のところはどうなのか…

日本昔ばなし「吉作落とし」は、閉じ込められてはいないが、置き去り系の恐怖。開放感があっても、閉じ込められてるのと同じじゃないか…という点で、この作品は救いがない。

ということで、なぜこういった「恐怖」に心惹かれるのだろうか。
ちなみに、こんなに心揺さぶられるのは、文章と音だけです。
映像はそんなに怖く感じないのも、不思議なもの。


 「そこの小部屋にだれかいるのかね?」
 「だれもいなかった場合には、わたしたちはこれまでですわね」
   ~グランド・ブルテーシュ奇譚より

 

グランド・ブルテーシュ奇譚 (光文社古典新訳文庫)

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№207 食欲など、感覚の制御について

先日の聖典学習で、「食欲と性欲の制御をいかに上手に実行しているか」という瞑想お題が出た。

まだヨーガを始めたばかりの頃、単に体操としてのヨーガをしていた頃のこと、教室で体操をしながら、帰りにパン屋によって買うパンのことばかり考えていた。

特に、ダヌル・アーサナ(弓のポーズ)という後屈のポーズが苦しくて大嫌いだったので、その時にはパンの思考が盛んに溢れた。
というか、「パンの思考に逃げた」。
じっとその苦痛の中に居続けることができないから、意識を飛ばして、体はそこにありながら、意識は別の所に逃避しているのだ。これをしなくなるための訓練として、ヨーガ・アーサナはあるのだと、今なら分かる。

スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師が来日された時、連日、納豆とご飯だったのに何の不満も仰られなかった、という話が頭の中にある。師匠は「たかが食べ事に心を煩わされない」という教えのために、この例を挙げられた。健康に対する拘りも執着の一つと見るので、AとBならどちらがより良いのでそちらを好む、という心も執着。
囚われにならなければ執着も楽しい。私だってある種の執着はある(某所のコーヒー以外は飲まないとか)。

当時、パンのことばかり考えていた自分は、言わば依存症の状態で、パンを狂ったように食べることが違法ではないというだけで、自分の苦しみが軽い訳ではなかった。
当時の私は、いったいパンを通して何を求めていたのだろうか。
今は、家にあるものだけで十分に満足できる自分でありたいと思える。なんとかその点かでは地獄から這い出すことができて良かった。

今は、知識欲がある。
運動器官を例える馬でいうと「眼」なのかとも思う。目から文字として入る情報を狂おしく求めているのでは。
「もっと分かりたい、知りたい」というこの思いで、これまで何度も足を掬われてきた。がっかりするのはもういい加減にしたい。
数少ないが、より真実に近い教えに縁を頂いていると思う。もう探し物はしなくてよいし、手放してよいものもあるように思う。
ただ読んで、書いて、弾いて、点てて。それで一生の間、十分に間に合う。時間は足りないくらいだろう。


書店に行って本を買いたくなる。
Amazonの欲しいものリストにも、ズラッと本が並んでいる。
程を守って楽しみ、自分の行為で苦しみを生まないように、と願う。


人の感覚器官の内でも2つの器官の働きは、非常にパワフルであり、その働きに打ち勝つことも非常に困難です。これら2つの感覚器官の内の一つは味覚の器官です。次にカルマインドリヤと呼ばれる運動器官の内では、生殖器官が最も強力です。