蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№870 LAX号泣事件の顛末

LA(もしくはその近隣)の友人と、可能な限り毎週オンラインによる交換セッションを行なっています。昨日と今日もそのセッションでした。ちゃんと毎回なかなかなお題が出現し、かなり重めのセッションに突入するのは、一緒にがっつり勉強した仲間で気心が知れているからでしょうか。

 

そういえば、先月レイキマスターマリコが帰国なさったので、近所のスタバで再会しました。会うのは2月のあの日、LAの空港(LAX)で大泣きしたあの旅以来です。

 

あの日私は凶暴なこりすと化し、マスターマリコにブチ切れて見せたのですが、なにゆえブチ切れたのかについてそれ以来ずっと思索をめぐらせ(瞑想を施して)はいたのでした。

 

なので、リアルに会ったらどうなるんかなと思ってはいたのでしたが、まったくどうということもなく、マスターマリコの「わー!軽なってるやん」という言葉がいきなり発せられて、「うん、そうやねん」というただそれだけのことでLA号泣事件は完了したのでした。

 

 

思えばそれは元来「帰国できなかった事件」であったはずなのですが、既に私たちの中で「こりすが混雑するLAXで大人気なく号泣した事件」ということになっており、クラスの中でも生徒さんから「泣くか?いい大人が、あんなところで」とツッコまれ、「やれやれこりすのお恥ずかしいおはなし」へと変容を遂げていたのでした。めでたしめでたし。

 

なぜ、めでたしめでたしかというと、私は相当強がって生きてきた人なので、弱みを人に見せることなどさっぱりできなかったからなのです。そこいらにおいでになるチンピラの方など目でないくらい、自らに対して冷酷なヤクザのような者であったのです。

 

が、しかし、この問題は多くの方が同じものを抱えておいでのはずです。

人間、実のところ、自分に対する態度や扱いが最低にえげつないのです。

 

人生の中で最も「あいつ嫌いや!!」と思う人にであっても、自分に対する非道さに比べればまったく目ではないレベルで、我々は自分に意地悪なのです。

 

なのでLAX号泣事件は、自らの弱い面を知らない人にまで晒し、ダメな自分に優しくできた超重要なこりす史に残る重要事件だったわけです。おわかり頂けるとすごく嬉しいのですが。

 

 

先日、ある友人と食事に行きました。たぶん5年以上になるかと思いますが、ほんのときどきその方のお店に伺って美味しいお酒を頂戴する仲です。ほんのときどきしかお目にかからないので、変化が如実に見えるらしい。


その方が「かよちゃん、変わったなあ!!」としみじみ仰ったので、マスターマリコの「軽なったなあ!」というのはマスターの贔屓目じゃなかったんだと嬉しくなりました。

 

自分なりのシャドウワーク(IHヒーリングやYoga実践、友人との対話など)、そしてシャドウワークとして機能してくれる伝統的ヨーガのVeda瞑想を繰り返し行ってきたつもりですが、どうやら道に迷ってはいなかったようでした。

 

こりすよ、おめでとう!めでたしめでたし。


でもまだこの先もまだまだあるはずです。心素に詰まったゴミ的なものは、うんとこさ。

なので内外の友人に手伝ってもらいながら、内的な掃除を怠ることなくやっていきたいと思います。それが抑圧されてきたこりすに対する贖罪かつ愛情であり、私という全的な存在に対する責任だと思うのです。ついつい外に投影してしまうものを引き戻し続けることを通じて、この仕事をやっていきます。