蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№832 だいじな人と

東京駅の銀の鈴で待ち合わせをして、大事な友達と二人きりで久々に話した。リアルで会えるのは久しぶりだった。

 

わずか小一時間の邂逅だったけれど、仲良しの人と話をするのはしみじみ楽しい。

 

 

この数年しっかり向き合って密なやりとりをしてきたから、お互いのことがお互いよくわかっていて、自分では見えていないところを客観的に教えてくれる。耳に痛いことも話してくれる。私の方も、思ったことは言ってしまうけれど、ちゃんと目を見て聞いてくれる。

 

こういうことって、浅い人間関係だと決してできないことなので、こういう深い仲になれる友達がいてほんとうに幸せだと思っている。

 

 

世界は自分の鏡なので、私の奥底がどういう状態なのかはすぐに教えてもらえる。返しが来る、ということ。怖いくらいの反応なので、このカラクリがわからずに生きるのはかなりしんどいはずだ。

 

しばらく前に腐ったような状態で過ごしていたときは、耳に入ることもくだらないことばっかりだった。しかし幸いなことに、目の前ではほぼ何も起こらずまた聞きに過ぎなかったが、もちろんこれも絶妙なタイミングで起こった修行の一つ。

 

愛する人との対話やセッションを行ない、自分を滋養してくれる本を読み、しっかり瞑想したりして自分の内的な状態に責任を持つべく努めているときは、雑音は次第に聞こえなくなって、世界は静かになってくる。

 

 

私が住む世界が美しく感じられなかったり、憎い人や目障りな人がいるように見えるのだとしたら、それはすべて私ひとりの責任だ。世界は私が作っているのだから、私は内的な状態を調えることに、断固とした責任を持っていないといけない。

 

 

思いもよらない体験をすることもあるけれども、この世界で起きることはすべて美しくデザインされていると、私は信じている。誰にとっても、不必要な経験は一切ないのがこの世界だ。

 

起きたことに文句を言わず、こんな目に遭うなんて自分はいったい何を理解していなくて、何に気づけと言われているのか?、と考えるようにYogaでは叩き込まれたが、その教えは間違っていなかったと思う。

 

 

先日「わかった」感覚を得たと書いたが、この感覚を得るために経験しなければならなかったことは、今の自分にとってはなかなかに過酷なことだった。でも素晴らしい体験だった。周りの友達もみんな、素晴らしい経験をしたねと言ってくれた。今はそれを咀嚼して消化し、栄養に変えていっている。十分に吸収して、なにかに還元したい。

 


この度久々に会うことができた大事な友達とも、一緒に次のステージ、次の活動へと進んでいくことになる。

一緒に旅をしてくれる友達の存在と、転んでも助け起こして慰めてくれる良識ある優しい人たち、豊かな体験に導いてくれる賢者のような人たちとの関わりに、深く感謝をしたい。

 

皆さんのような人たちがそばにいてくれて、私はとても幸せです。
ほんとうにありがとう。