最近、O先生と密にやりとりをさせてもらっています。
一緒に加藤ゼミにも飛び込んだので(道連れにしたのです)、そのふりかえりなども二人でやっていて、話が尽きることがないのです。
ちなみに加藤ゼミとは、私が以前から「成人発達理論」を学んできた場でして、今回3年ぶりの開催になります。
もうこういうゼミナールはやらない、といつか仰っていたような?気がしていたので、「無いはずのものがある」という喜びはかなり大きく、想定外のご褒美をもらったような気分です。
こんな私でも参加できるので、どなたさまでも大丈夫です!
毎回新しい発見があり、ゼミ後に散歩している時にも、自分の中にいろいろなものが湧き上がってくるのも豊かな体験でありがたく思っています。
ご興味ある方は、ぜひご一緒に♪
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★「オンライン加藤ゼミナール」
https://yohei-kato.mykajabi.com/fa999c9a-6026-4973-a841-198df95932ef
さて、O先生とはこの1年ほど、一緒にYogaの学びも行ってきました。
ここでいうところのYogaとはいつも私が言っている意味のYogaであり、Asana(体操)じゃなくって「合一する境地としてのYoga」であります。
人間は肉体を持って生きいている以上、全然心が揺れない境地に達することは難しいです。
それをなるべく制御できる方向に持っていくことは、ある程度可能だとは思っていますが、生きていて生じることは自ら測り難いと思うことなどもあり、波に翻弄される木の葉のようにしっちゃかめっちゃかになることも当然あります(いずれそれもないようになればなあ、というの望みは強く持っていますが)。
人の意識は、この「木の葉モード」から「揺れ動く波」の側に移ることが可能ですし、なんなら「波を揺らしている側」にいることもできます。
O先生とのやりとりの中で「波はあってもいいんだよ」というお言葉を頂戴した時、自分の意識状態が「木の葉モード」に収縮していたのに気づき、「おっといけない!」と、正気=人間存在とは波を起こしてしまえる側であること、を思い出したのでした。
その時、バン!と脳内に浮かび上がったのがバガヴァッド・ギーターの中の詩句で、即座に本棚に走り、数冊あるギーターの中から一番のお気に入り「ギーター・サール」を開いて深く頷いたのでした。
狂気に引きずり込む友達は修行の友ですが、正気に取り戻してくれる友達は解脱の友でしょうか。なんにしろ、O先生には感謝であります。なにとぞ引き続きよろしくお願いし申し上げます。
「絶えず流れ込む川の水を受け入れ、満たされながら、海は全く揺らぐことはない。」Gita2−70