蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№494 愛がうけとれるように

いちにちを降りゐし雨の夜に入りても止まずやみがたく人思うなり   藤井常世

 

 

 

JK剣士が面白いことを言う。
ハッキリ言われて傷つくか、ハッキリ言われずに傷付くか、どっちかだよねえと。
 
いったいなんの話かと思ったら、剣道部の監督は「おまえは下手くそだなあ!」とハッキリ言ってくる。これはもうグサッと刺さる。ところが、師匠(お花諸々)は、「あら…」と一言。でも、ああ、しまった、いけなかったんだなと思わされる。どちらもキツイ、と。
 
でも後者の先生も、ママにははっきり仰る。
「OKと言ってやりたいけど、言いたくない。このままじゃ年は越せない」と。
まだそんな演奏じゃダメ、でもこの曲を来年になっても稽古するのはもっとダメ、ということですね、師匠。精進します…。
 
 
この5年でママは人間がだいぶマシになった、と子供たちから評されている私だが、昔は“説教系鬼教官”に分類される生きものだった。子供が泣きながら「ごめんなさいー!!」と言うまで理詰めで追い詰めるか、窓から子供の大事にしているものを放り投げて「全部捨ててしまえー!」と言うか。
 
この後者のアクションは、自衛官ならみんな経験のある “Typhoon”のことですね。
指定場所に居住する義務のある自衛官は、「営内」と呼ばれる居住区に住む。ここでは色々なお作法があるため、それを体に叩き込まれるわけだが、一番たいへんなのが寝具の始末。
 
寝具と言っても要するに、毛布。折りたたんだ毛布の端っこが、神戸ユーハイムバウムクーヘンみたいに、きれいにスパッと切ったようになっていなければいけない。で、これができていなかったら、点検にやってきた班長が窓の外へ飛ばす。これが「台風」と呼ばれる洗礼。
 
訓練や座学から居室に戻ると、自分の寝具が消えていて、なぜか窓が開いている。見ると屋外に毛布が散っているので、泣きながら取りに行き(次の予定も迫っているのに)、元通りだとまた飛ばされるので、元の状態よりきれいなバウムクーヘンになるよう必死で調える。
その他にも、靴磨き、アイロンがけ、公共場所の清掃や使用のマナーなどなど、多くのことを躾けられる。飛ばされるのは毛布だけではない。ちなみに、トイレットペーパーを三角に折るのは「清掃しました」という意味だから、掃除してないのに三角にするなって教わりました。これ、ほんと?
 
 
うちの子たちのママ(私)は、この台風を職業として「やっていた」側なので質が悪かった(大方の人は、教官は経験しない)。言ってわからんなら体感でわからせる軍隊方式を、ごくごく自然に採用していたのでもう大変。
飛ばすのが子供の持ち物ぐらいならいいのだが、秘儀「ちゃぶ台返し」も2回くらいやった。なにが乗っているか、液体物はあるか、飛ばしたあとの心理的展開はどうなるか、物理的な後始末(飛ばした本人がやる)はどうするか、そもそも効果は生めるのか? すべて冷静に計算した上で効果的にやらかすので、家族は大混乱になる。いやあ、当時の自分は元気が有り余っていたなあ! でも、もうやらないよ。
 
多少は人間がマシになったという噂の私が、今採用している方法は「菊洋先生方式」。お花の先生と同じ手法を心掛けている(つもり)。
「嘘でしょー?!」と心のなかでは引いていても、口から出す言葉は「あら」「まあ」。顔はたとえ眉が八の字になっても、笑う。そしてほめ殺し。えらいね、すごいね、かわいいね、自慢だよ、ありがとね。究極は「生きていてくれるだけでママ嬉しいよ!」。
 
 
学びの過程である日、突然、素直に素晴らしいなと思えたのだ。
人がこうして生きてるということが。ほんとに。
具体的に何があって、ということは覚えていないのだが、物理的、肉体的な体感ならありありと覚えている。
 
カッと体が熱くなって、下腹部に血が巡る感じがした。丹田を含む、第1第2チャクラの辺り。そのあと全身に血が巡ってあたたかくなり、ホッとして涙腺が緩んだ。
人の心身が「ゆるむ」とは正にこのことだと、ようやくわかった。
そのとき、これまで頭で学んできたストレスというものが、身体にどのような状態を強いているかが理解できた。それは頭からではない、身体からの理解だった。
 
だから冷えのある人は、きっとこのあたたかさを感じられていない。
便秘の人も、慢性的な痛みがある人も。そして今、心が苦しい人も。
 
からだを動かすというアプローチは、物理的、人為的に少しでもこの「ゆるんだあたたかい」状態を再現して、「ああ、よかったんだ、こうしてあたたかくなって、安心してもいいんだ。」と思える一瞬を、リアルに体感するためにあるのだと思う。そうすることを通じて、ストレスというものを一所懸命に受け止めている自らの在り様を癒していけるように。
 
だれもみな、何も修正することはないし、このままでいい。今のままでいい。
変わることを急がなくていいし、変わらなくたっていい。でも何事かが起こって、変わりたくもないのに変わらねばならないときがある。
 
そんなときには道を踏み誤ることだってある。世間なるものから白い目で見られるようなことも、もしかしたらやらかしてしまうかもしれない。でもいいよ、そういうときのためにママがいるんだと思うよ。
 
今、この子たちのママとして果たしたいと思っている役割を、仕事という場面でもやっていかないと先生はダメだよ、と、長い付き合いの生徒さん・セツコさんが、今日言ってくれたのだ。いつまでも智慧や修行って言ってたら、いけないよと。
 
愛は受け取り手の課題だと、私は思う。
誰かが私を思ってくれても、私自身がそこに飛び込めなければ、その愛はないことになってしまうだろう。あなたを、私を、私自身が信じられるのかどうか。
でも同時に、不安で怖くて、信じられなくても、しっかり手を握って、目をみつめて(できれば抱きしめて)大丈夫なんだよと言いながら、いつまでも待ってくれるひとがいてくれれば、人のなかの愛は育っていくはず
 
がんばっても育てられないけれど、身を委ねられれば感じることができる愛というものを、私はどうやって教えていけるのだろうか。人に教えられるほどの愛を、受け容れながら生きていけるだろうか。
愛の大きさにひるまず、あなたをじっと見つめて、応えることができるだろうか。