蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№489 すわる、ということ

体内にしたたる翠(みどり)暴れる日抱きとめられねば胸から跳ねる  陣崎草子

 

 

 JK剣士は中間試験のため稽古がおやすみ。今は、生きることの次に剣道に専心しているので、試験とはすなわち休憩である。毎日昼に帰宅し、賑やかしい。
今日は世界史の試験だという。「ねえママ。サルデーニャ王国ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、家族になんて呼ばれてたのかな?」ときた。そこ?エマヌエーレ2世の愛称気になりますか。ママも想像つかないよ。たぶん試験にはでないと思うよ。

 


さて、O先生が「この世から椅子が無くなればいいのに」というようなことを呟かれていた。

そうね、現代人の健康害の多くは、座りっぱなしのライフスタイルから生まれていると言われていますものね…。
先生の日々のお仕事は「生活で生じた痛み」を抱えた方と向き合っていくことが中心命題だろうから、その言葉は魂の叫び、そして嘆きだと思う。

 

ヨーガのアサナは実のところ「坐法」という意で、安定した快適な姿勢でどれだけ長く座れるかということを求めている。

座る、というのはなかなか難しい動作。

O先生はオンラインでの打ち合わせ中、微かに揺れていることがあるから、たぶんバランスボールに座っておられる?当然私も備えているが、普段はお箏の演奏に用いる安っぽい折りたたみ椅子を用いている。ニトリで500円とか? 高さが絶妙で演奏に最適。


長時間座る快適さを、私は椅子に求めていない。
初めてのお産のあと、腰痛と膝痛が悪化してソファに大枚をはたいたが、Yogaや茶道のお蔭で事情は一変してしまった。
正しい座り方、そして姿勢について学ぶことができたからだ。

椅子とは「腰掛」であって、必要な作業の際に相応しい用い方ができればそれでよい。正座、胡坐と椅子に座ることをその都度使い分けている。


茶道や筝曲を通じても、“座る”ということが、すべての動作につながっていることを学んだ。10年以上取り組んできて、最近ようやくこの重要性に気付けた。


点前をする場所にどのように座るかということを「居前(いまえ)」という。
炉に対するからだの角度は、点前によって明確な決まりがある。ほんの少しずれても、点前という一連のシークエンスに自然に対応することができない。
自然であるとは、無理なく美しいことである。

美しい点前は滞ることのない流れのようで、主客という関係のやりとりもその流れから生み出されていくように思う。ちょっとしたお声掛けをお客様がくださるとき、亭主は一瞬手を止めてお辞儀をする。
自分のやっていることにだけ夢中になっていては亭主という役目は務まらないし、点前だけに必死だったらその焦りや緊張感が席中に伝わり、空気が変容してしまうだろう。点前とは、実に複雑な学びであると思う。

点前座に座っているとき、畳をとらえている両ひざから下の部分で巧みに動きと安定をつくる。お尻を浮かせたり、身体を左右にねじったり、お腹の底に力を入れて湯の満ちた釜を持ち上げたりする。上半身は踵の上でスタンバイしているだけ。

表流では、正坐から立ち上がるとき「一足立ち(いっそくだち)」といって両足を揃えたまま立つ。手には道具を持っているので、膝を支えたりすることもない。内転筋、骨盤底筋群、体幹部の筋肉が上手く使えないとできない動きだ。時には、値も付けられないような貴重な道具を扱わせて頂くこともあるので、万が一粗相があっては大変である。立ち居振る舞いというのは、物や人を大事に扱うことと密接につながっている。


茶道は体造りも要求される身体の鍛錬だと感じる。
この点が理解できていないと、稽古を通じて体を壊す。膝が痛くて座れなくなったという理由でお稽古を止める人は多い。
我が師は様々な工夫と鍛錬で、80代になった今も稽古日の終日を正座で過ごされる。朝10時から23時過ぎまで、お疲れをお見せになることなく、穏やかな微笑を絶やされない。教わるのは点前だけではない。こういう優れた手本たる方のお傍で過ごすことができるのは、とてもしあわせなことだ。


筝曲の場合は、絃を単に爪弾くだけでなく、13本ある絃を滑らかに鳴らすグリッサンドのような大きな動きや、左手で強く絃を押さえて音を上げる、絃を揺らし音飾を作るなど多彩な動きがある。座りが安定していないと演奏に集中することはできない。また、筝曲は歌を歌うが(箏歌/ことうた)、幅広い音域を要求される。下腹部に土台がなくては、古曲らしい重厚な歌を披露することができない。


管楽器と違うと思うのは、この動きの多彩さである。椅子の高さが演奏に大きく影響するので、深く座ることはなく腰を預けているだけ。しかし同時に安定していなければ、指先だけで行うトレモロのような繊細な動作はできないし、どっしりとした歌声は出ない。動と静を瞬時に使い分けなくてはならない。

そういえば椅子に座って演奏することを「立奏」と呼ぶ。正座でおこなう座奏の場合も、すぐに腰を浮かせて左前方の絃を押さえられなくてはならない。羽ばたこうとしている鳥のように。

三絃の演奏では、右の前腕と右大腿で楽器の胴を支えている。坐る姿勢が崩れれば楽器の角度が変わり、左手と棹の位置関係は崩れ、ツボが取れなくなる。撥が絃に当たる位置が数ミリずれれば、生まれる音は変わってしまう。

 

 

ことほど左様に「座る」という動作は、さまざまな活動に大きな影響を与える。
座る、ということに対する概念を変容していった先に、健康はあるのかもしれない。その時初めて、O先生のお言葉の真意がつかめるのだろう。

多様な取り組みとYogaが関連し合いながら、私の心身を作っていることを改めて思う。

物事に出会うのも、人に出会うのも、すべてなにかおおきなもの(私が思うに絶対者ブラフマン)が決めていて偶然はないという。
芸という遊びがわたしの仕事を支えているのならば、遊ぶことも、人を愛することも、魂の冴えるまでやってみようか。