蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№490 ぼんやり生きてる

掘り下げてゆけばあなたは水脈で私の庭へ繋がっていた  笹井宏之
 
 
試験で帰宅の早いFJK剣士(高校1年女子のことをこう表現するそうである 。)
映画が大好きな彼女は、なぜかハリポタ熱が再燃中。「原作を読み返す」というのでAmazonで中古全巻セットを購入、巨大な箱が届いた。
その数時間後、白い毛布を体に巻き付けて家のなかを歩いている。訳を尋ねると「しろざりん」に入寮を認められたという。魔法学校に入学したんだ。それはお目出度いことだね、「越後獅子」を弾いてお祝いしよう。
 
 
最近の自分は使いものにならない。ただ生きているだけのような気がする。
 
心を占めるあることのためにぼんやりして生きている。そもそも人間がぼんやりしているのは前からだよと次女に言われそうだが、輪をかけてそうなっている。 夜になると、ある曲そのままに “Don’t you know, you fool, wake up to reality.” と耳の奥に繰り返し警告が聴こえてくるように思われ、ぼんやりしてしまう根本理由を解消したらどうかとありえないことを考える。朝になると根本理由がこの世に存在することの喜びに胸が震える。
人の心のこのような揺らぎを素材として、あらゆる芸術は生まれているのだと思う。心素の働きはありのまま自由に、私という自己はその豊かな波を力強く支える器でありたい。
 
 
 
大崎のスターバックスで規夫師匠に長時間のセッションをお願いしていた頃、一生をかけてやっていく活動の話になった。先生のその活動は何、とお尋ねしたところ、書くことを通じて人に何かを伝えていくことかなと言われた。今も先生は次の著作の執筆に当たられていると聞くが、文章や書籍は、誰かの頭のなかにしか存在しなかったものを広く伝えていく媒体として優れており、プライベート・セッションなどと比較するとその効率の良さがわかる。記された言葉を通じ人柄が伝わることも嬉しい点だ。新装版ILPには、10年の年月を重ねられた師匠の愛が細部にまで溢れていると感じた。 
 
私は、言葉から力をもらいながら生きている。
書籍や、誰かの一言、歌の歌詞に激しく胸が締め付けられる。 茶室に掛けられた言葉を、書いた人そのものとして扱う茶を学んでいるからだろうか? Yogaで内的なものの言語化を徹底的に訓練されたからだろうか。それとも、自分の内面にしか理解者がいないと思いながら生きてきた期間が長かったからだろうか。
言葉が与えてくれる力は、物理的な力となって心身に影響を与えるから、背筋をなにかが駆け上がり、血が巡り下腹部に熱が発するのを感じる。実際に誰かに触れることと言葉に触れることを比べることは、わたしにはできない。どちらもリアルで、重要だから。
 
 
みな、自分のなかにしかない“なにか”を表現しながら生きている。 このなにかを人に知って欲しいし、認めて欲しい。そのことが言葉となり、関係性となり、仕事となっていく。
 
使いものにならないわたしは、こうやってひたすら文章だけは書いている。 誰も読んでいないと思いながら、好きなことを言葉が溢れ出るままに書いているが、先日ママ友F さんと会ったとき「読んでるよ」と声をかけられて、思わず「え、なんで」と返してしまったが、公開しているのであるからどなた様が読んで下さってもいいのだし、有難いことなのだった。 規夫師匠の言葉を思い出しつつ、教室で生徒さんにお話しできる以上の“なにか”を語りたいと切望している自分がいることを感じる。その体操を今日選んで、今のあなたに教える理由を、一夜かけて語ってみたい。
 
 
3年前の今日、東京にいた。
銀座にある尾上菊之丞さんの稽古場で、友人で日本舞踊の先生である博美さんが「雪」を舞うのを拝見した。細かいことは忘れてしまったが、晩秋の東京の室内で、博美さんのまわりにほんとうに雪が舞ったように見えたことは鮮烈に覚えている。その数日前に上京し、やっぱりお兄ちゃんに美味しいものを食べさせてもらっている。青山のカフェでフォンダンショコラ、蔵前のダンデライオンエクアドルのチョコレート。
 
東京でレッスンを、と志したのがそのとき。
理由は、もっと頻繁に規夫師匠にお会いして勉強しなければと思ったから。 県の幹事長を務め、いくつかの事業の立ち上げに関わり、インド政府の認定資格ももらった。日本一人口の少ない土地なのに相当数の人に指導をして、クラスはキャンセル待ちだった。これは自慢話ではない。ヨーガ療法の世界で目指していたものを突きつめたはずなのに、何かが絶対的に足りないと思い、心が餓え、孤独感に苛まれた。 
 
Yogaがこの世で一番、唯一の優れたアプローチだと私は思っていない。ただ効率的で役に立ち、歴史の洗礼を受けた安全性が、人に提供されるうえで重要な意味を持つ点は素晴らしいと思う。 私自身はYogaそのものを愛し、その世界観を好んでいる。
自分というもののなかにアートマンという生命が宿っていて、その媒体を通じ、わたしのなかに全世界があなたやブラフマンと共に息づいていると感じているし、その至福をこそYogaと呼びたいと思う。でもそんなことは、要らないひとには要らない。それでいい。
 
規夫師匠に会うために東京で仕事を、という思いは、そのとき所属していたある勉強会の悪影響でお金もうけの話にすり替わってしまい、その後1年でなにもかもが嫌になった。ぼんやりと生きているのが精いっぱいだったのはその頃が最初で、今回が初めてではない。
 
でも、ぼんやりといいながら芸事は休んでいないし、茶道教授の講習は5年の満願を迎え、筝曲準師範の試験準備もした。お酒を造っているイタリア人を友人の酒蔵に案内したり、神戸で友達を作ったりしている。生徒さんは、私のぼんやりには気付かなかったらしい。
ぼんやり生きることが執着や作意から私を遠く離し、内側に息づくブラフマンにすべてを明け渡すことに繋がっているのかもしれない。結局すべて、これでいいのだって感じ。 だから今回も、たぶんこれまで知らなかった自由を見ることができる。そんな気がする。
 
 
Yogaとは生きることそのものだと教わった。 別の表現をするなら、意識すること、といってもいい。意識をしないのならば、たぶんそれはYogaのようにみえるYogaでないもの。
 
だからあなたが、自分が手にしたい何かのために体操をするとき、あなた自身を意識してほしい。私があなたと一緒にいて、あなたの話を聴くとき、あなたのなかにあってあなたもまだ気付いていないものを知ろうと耳を澄ますように、あなた自身も自分のなかにあって、あなたがまだ出会っていないなにかを見出していけるように、ただ感じて欲しい。 そっと目を閉じて、傍らにいる大事なひとの掌の感触を、愛おしむように。
 
そして、あなたがやったことではなく、感じたことを、私に話して聴かせて。