蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№436 帰るところ

「この世において認識されるものは何でも、アートマンと同一視されてしまう。それゆえに、人は混迷に陥り、そのために真実のアートマンを見出せないのである。」
    ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-2

 

 

昨日、筝曲の稽古で、1年数カ月ぶりに「六段の調」の稽古をつけて頂いた。

古典の名曲「六段」。
段物または調べ物の代表曲。
近世箏曲の祖である八橋検校により作曲されたと伝えられている。
各段が52拍子(104拍・初段のみ54拍子)で六段の構成となっている。
歌を伴わない純器楽曲である。

「筝曲はこの曲に始まり、この曲に終わる」と言われる。
箏も三絃も、この曲が一通り弾けるようになったとき初伝のお許しを頂いた。

このように大事な曲なので、とにかく回数は弾いている。でも納得できたことは一度もない。
人前で演奏しようとしたらどれだけ大変か、と師匠がいつも仰る。

でも師匠譲りでキモのいい私は、恐れを知らずにライブ・セッションをさせて頂いたことがあるのだ!
(師匠には内緒で。ごめんなさい。)

そのとき胸をお借りしたのが茶喜利さん。

女優、浅野温子氏の「よみ語り」で音楽を担当していることでも知られるアーティスト。独自の音楽療法「マザーノート」や、世界先住民族の会議に参加し世界各地でセレモニーやセミナー、そして最近では体幹を整えるウォーキングのワークショップも行っている。

ご宿泊中の奥出雲の宿(島根県雲南市の湯之上館)に箏を持ち込み、打ち合わせもリハーサルもまったくなしで、

ただ申し上げたのは

「私は自由に弾きます。茶喜利さんにはきっとわかると思うから、
合わせて頂けますか?」

ということ。

ちなみにその数年前、私にとっての兄のような存在の強い勧めを受けて、茶喜利さんの「マザーノート」セッションを受けた。

茶喜利さんが仰るには、すべての人のなかには固有の音楽があるという(周波数や波動のことだと思う)。
茶喜利さんはそれを聴くことができ、即興の演奏でそれを聴かせてくれる。

誰ひとりとして、自らの内で、美しくない音楽を奏でている人もいない。力強くない音楽もない。
その、自分のなかの美しい音楽を人は自ら聴くことができず、信じることができないから悩む。

だからこそ、誰かがそれを取り出して、聴かせて差し上げることが必要になる。
それが「マザーノート」のセッション。

セッション中、私は目を閉じて茶喜利さんの演奏を聴いているだけなのだが、そのなかに三絃の「六段の調」が聴こえてきた。ぴったりはまって、まるで茶喜利さんと合奏しているかのように。

そのことがあって以来、茶喜利さんに六段を聴いてもらわないと!と思ってきた。

なので、ライブセッションの際には「私を通じてこの曲を聴いているから、あなたにはきっとわかる」と申し上げた。

六段の調なので、六つのパートで構成されている。
速度もわずかずつ増していき、四段で盛り上がり、五段は勢いがあり華やかに、そして終わりの六段ですべてが静かに収まっていく。

速度を増してノッていきたいタイミングも、演奏の終わりに向けて僅かずつ緩んでいきたいときも、曲の中で実際の間がある(糸を鳴らさない)ときも、すべて私に添って頂いた。

一言でいうと「痺れた」。至福の体験だった。

この大切な曲で、こういう体験をさせてもらえたことは演奏者として実に幸せなことだったと思っている。


「六段の調」は、筝曲を志す者が常に帰っていくところ。
茶道だと、運びの点前がそれに当たる。
ヨーガならば、ひとりで毎日行うシンプルな行がそうだろう。

華やかなバリエーションや、工夫をした改良版だけで物事を行っていてはいけない。
時々は原点に戻り、初心を取り戻さなければならないことを、この曲はいつも思い出させてくれる。

慣れてはならない。一瞬たりとも、同じ時間はないから。

 

 

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