蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№476 大事にされることの大事さ

焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのおとうさんが好き  俵万智

 

昨日は田端での打ち合わせ。約一カ月ぶりにO先生とお会いした。
先月、名古屋でご一緒して以来で、きちんとご挨拶もしないまま慌ただしく上京したので、田端駅でハグして再会を喜んだ。

先月の哀しい体験についてとことん聞いてもらう約束をしていたので、会議室で二人になった折、ハンカチを目元に当てめそめそしながら話をした。愚痴か嘆きかわからぬことをさんざん聞いて頂いたあとで体が動かしたくなり、会議室に無理やり2枚ヨガマットを敷き、ムーン・サルテーション(月の礼拝)から始まる一連のルーティンを一緒に行った。最後は、O先生ができるようになりたいと言っておられるシルシャ・アーサナ(頭立ちのポーズ)の練習をした。

O先生はベテランの理学療法士さんだが、ご自身のからだとの調和を大事にし、肉体をモノとして扱うことは決してなさらない方だという絶対的安心感があるのでアグレッシブなポーズもお教えする。
ふだん「ヨーガは体操じゃないんだよ」とうるさく言っているので、リラクゼーション中心のゆるーい体操しかやっていないと思われているようなのだが、それは大きな誤解である。

毎朝行うルーティンを私も持っているけれど、しっかり行うと30分以上はかかるポーズの選択のなかには、激しい有酸素運動も含まれているし、ヨーガ療法では絶対に指導しないハードなポーズも複数含んでいる。特に頭を下にしてからだを支えるようなポーズは、眼圧が高まることで不測の事態を生む可能性が排除できないため、一般の教室では絶対に指導しない。認定ヨーガ療法士の倫理規定にも明確な規定があり、そのような危険のあるポーズを指導した場合は資格が剥奪される。こういったことが現実的な問題としてあるので、「野良療法士(認定を保持していないヨーガ療法士)」は危険だ。

自らのからだとの調和を達成し、なおかつ効果が高い諸刃の剣のような行法の危険度を十分に理解した人に対してのみ、ヨーガ療法ではなくラージャ・ヨーガの一部としてこういったポーズをお伝えしている。

今朝も仕事の前に、ふたり一緒にそんなアサナを行って、波打つ胸の呼吸を感じながら並んでシャーバアーサナで休んだ。


さて、実を言うと昨日は母の命日だった。一周忌の法要は先月無事に済ませた。
昨年のこの日、私は神戸にいて、木次酒造の蔵元杜氏をお招きしてのイベントに参加していた。早暁、母が逝ったことを伝えられ、声を殺して泣いた。大きな心の葛藤を抱いてきた母との別れは、時が経つにつれてわたしのなかに安堵感を生み、過去のつらい思い出も関係性の苦しさも浄化されていくように感じていた。初めての命日を迎える前に大事な友人との別れがあるなどとは思いもしなかったが、昨年母が亡くなったその時間に、今年の私は旅先にありながらもひとりぼっちではなかった。物理的にも、そして何より心理的に。

家族、友人、とかく人との関係性は難しいね、とめそめそしながらO先生と話した。私たちはいつも、人にとって価値のある「第三の場」を作りたいと思って仕事をしている。家庭でも職場でもないコミュニティで、人として案じられ、話に耳を傾けてもらい、大事にしてもらっていると感じる、そのことが人を癒すと思う。

社会のなかで、褒められない関係性というものがあるだろうか。人がこの世で生きていくために、誰かの存在によって力を与えられ、その力をもって他の誰かに貢献していこうとする意欲を持ち得るなら、制度上の壁は超越されるべきかもしれない。

冒頭の俵万智の歌は、穂村弘の紹介で出会ったもの。問題作のように感じる人もあるかもしれないが、人に恋し、人を求める素直な感性が表現されていると感じ、好感を持った。