蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№475 お免状なるもの

君の目に見られいるとき私はこまかき水の粒子に還る   安藤美保

 

 

 

故人宅に4日間滞在させて頂いたのち、都内某処へ移動した。池のほとりに佇むカモの姿を見ながらこれを書いている。

 

昨日長女から、流儀花の稽古をさせてくれてありがとう、というメッセージが届いた。

若い頃の自分はほんとうにもの知らずで、20代後半のある仕事での出来事をきっかけに「ものを知らないことは恥ずかしい」と強く思うようになった。なんとかしたい、どうにか違った自分になりたいと思っていると、縁というものは不思議なもので、あれよあれよという間に茶の道に導かれていた。

 

お茶をしていてすごいねえ、というお褒めの言葉を頂くことがあるが、何ということはない、若い頃感じた情けない気持ちに追い立てられ、挑むように歩みを止めなかっただけで、辞めるのは負けたような気がして悔しいからというだけで、今があるように思う。風情もなにもないが、年月は当初の恥の概念にも何かしらの装飾(もしくは浄化)をしてくれたようで、振り返ると心が温かくなるような気がする。

 

流儀花の稽古をし、いちおう二つほどのお免状を頂戴したのも、「茶を嗜む者が、花のことをまったくわからないのは困る」との師からの助言によるものだった。
そもそも花をはじめとする植物全般に興味がなかったものだから、花の名前が覚えられずに苦労したし、心を病んでいた時期には、花を手にして花器の前に座ることがそもそも辛くてたまらず、華道とはなんと怖ろしい稽古だろうかと思った。

フラワー・セラピーというものがあるが、これもまた他の療法と同じく、優れた指導者の下で安全に行われなければ、美しい花に殺されるような心持ちがするに違いない。美しい草花を鋭い花鋏で決然と切って活ける華道はやはり道のひとつに違いなく、そこに平常心とか不動心とかいうものが間違いなく生まれていくのだろう。私が行ったわずかな期間の稽古では、もちろんそこまでたどり着くことはできなかった。

 

冒頭の娘の発言に戻ると、彼女も茶道を嗜むがゆえに、必須の教養として流儀花の稽古を始めたものであって、私と同じくあまり花に対する興味はなかったと思う。最低限の免状だけを頂いたのち花の稽古は休止しているが、数年その学びを寝かせたのちにこのような発言を聞くことができ、親として非常に感慨深い。

 

学ぶことは決して無駄になることはないと思う。
実践の道では、自分に合うかどうかを知るのにまず三か月試してみれば、と言う。クラスでもそのように申し上げる。だが、和の稽古の道は、初心のうちは言語による指導がほとんどなく、非常にゆっくりとしたあゆみで学びが進んでいくので、なんとかひとつお免状(もしくは級か、段位)を頂くまでやってみられては?と申し上げたい。

 

正直なことを言うと、どの道も指導者の質は色々なのであって、免状を乱発する先生もおられるとは聞く。そういう方の下での学びはもっての外だが、常識的な師の下でなんとかひとつめのお免状を頂くと、実に感慨深いものだ。
たかが紙を折りたたんだようなものに何万円(場合によっては何十万)も出すのか、という人もいると思うが、実際にお免状をもらってから仰った方がカッコいいと思う。

 

マメ知識をお伝えしておくと、茶道のお免状は「その先の稽古をしていいですよ」というお許し。筝曲や華道などでは「(ある段階のことが)できるようになったからあげましょう」という認めである。

お許しは「できるようになった」という概念がそもそもないので、奥深いと同時に難しい。認めを頂くと、痺れるほど嬉しいのだがそれは一瞬で、数年後に同じ曲を弾いた時に「あのときできたと思ったのは、いったいなんだったんだ?!」という挫折感を味わうことになる。どちらも怖い。