蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№432 自分の流儀

「刀は、鞘から抜き出されたとき、光輝くのが見られるように、認識主体は、夢眠状態において、原因・結果から自由となったときに、自ら輝くのが見られる。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-11

 

 

子供の頃から習い事に憧れて、20代の初めに楽器(フルート)の個人レッスンを受け始めたのを初めとして、あれこれとお稽古ごとをやってきた。

残念ながら、フルートは転属に伴う転居で先生とお別れしてからご縁がないまま眠っている。アマチュアであっても一生ものを、と思って購入したリッププレートだけは9KのMIYAZAWAの楽器は、いつかオーバーホールをしてやらねばならない。たまには吹いてみねばと思いつつ、たぶんあまりにも下手くそで耐えられない気がする。

あれこれやってきたが中断したのはフルートだけで、他はなんだかんだと続けてきている。

茶道に入門するとき、当時でも岐阜県茶道界の重鎮で在られた高橋妙泉先生が「花嫁修業などという名目の腰掛稽古は好まぬ」とはっきり仰ったので(花嫁修業などは一度たりともしたことなないが)、「そうか、始めたら辞めたらいけないんだな」と素人ながらに思い今に至る。そこから20年。

20年経ちました、と今の師に申し上げると、フッと笑って「たったの」と言われる。
なにしろ先生は私の3.5倍くらいの歴がおありなわけだから、その程度で何を言っておるか、ということで笑い飛ばしてくださるわけ。

ヨーガももちろん、伝統の世界は師範になってからが正式なスタートであるとか、30年過ぎたところから1年生とも言われるので、私はまだマイナス10年生。なんだか気が楽になるではないか。

ということで、私がマイナス10年生のナンチャッテ茶人であるので「作法が全然わからないから…」ということで話を振って下さる方に時々出会う。

お作法ってなんだと思いますか?

その場で従わなければバカにされたり、恥をかいたりする気づまりなルール、みたいな捉え方の方が多いように思う。それはとても勿体ない!と思っている。

もちろん私も入門時はそうだったので、初めての稽古の日に「何も分かりませんが…」と言い訳しながらご挨拶したら、「それはもちろんそうでしょう、まだ何もやってないのに知っているわけがない。」と先生に言われてコケそうになった。

知らないこと、できないことは、まったく恥ずかしいことでない。

ということを、お稽古を通じて教えてもらった。
この解放感たるや、ちょっと言葉では説明しにくい。

「わかりません」「知りません」「初めてです」
と素直に言えばいいだけなのである。
教えてもらったら「へー!」と思う。それだけ。

そこで「えー、知らないの?恥ずかしい」などと言う大人はさすがにいないと思うが、うっすらとでも態度に表すような人がいたら、それはその方が弁え違いをしている無作法者なのである。

その方の芸や技が本物なら、「知らないのは何も恥ずかしいことではないので、まっさらな気持ちでお楽しみになったらよろしいのです。」ということを伝えてくれるはず。

ご流儀やお作法は、人を守ってくれるためのものであって、傷付けるものではないから。

ああ、でも一つ申し上げておきたいことは、やはりお作法は美しいと思う。

自らの結解を守りつつ、人と向かい合う。
無駄に頭を下げることを絶対にしない(ぺこぺこしない)。
大事なものを、その価値に相応しく扱う(格に合わせた扱いをする)。
一緒に時を過ごす人を慮る。

ふとした瞬間に、この世界を見ることができてよかったなと思う。

皆さまにも、ご自身の流儀(とある場面で従う、自分なりの作法・ルール)をおひとつお持ちになることをお勧めしたい。
きっと気が楽になります。

ちなみに末広(扇子)は、結解を表現する。
おひとつ持っておかれてもいいかもしれない。

 

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