蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№352 心が悪の行為の住処ならば

「我は水における味であり月と太陽における輝きである。すべてのヴェーダ聖典の中の聖音アウンであり、空間の中の音であり人間の中の雄々しさなのである。」  
 バガヴァッド・ギーターⅦ-8

先日届いた本を読んでいる。
大戦中、仏教者が戦争協力をしたという事実について掘り下げた良書であり、衝撃的な書でもある。

バガヴァッド・ギーターのなかにおいて、武人アルジュナに対して「戦いの準備をせよ」とクリシュナ神が語る。

ヨーガには10種の戒律「ヤマ Yama・ニヤマ Niyama」があり、その筆頭が「非暴力 ahiṃsā 」であるのに、クリシュナ神はなぜそんなことを言うのだろう。

何かに悩み、怒りを覚えることや、その怒りを他者に対して表現したいと思う一瞬は、人間ならば誰にでもあるだろう。
「心のなかの戦争」はなぜ起こるのか。また、どうすればそこから逃れられるのか?

心は善と同時に、悪の考え方や悪の行為の住処でもある

人間というものは、ある時は正常となり神の領域まで達し、ある時は悪魔にもなる。

 

従って、清浄で自由でありたいと望むならば、己のもつ悪に対して注意深くあらねばならならず、自分自身で束縛と苦痛の原因である悪の本質を探し出し、除去していかねばならない

 

ヨーガでは、この取り組みを「何か大きなもの」と共に行うよう教えており、人間がひとりで行うことはできないと言っている。
これは、人間を超越した視点から見るという努力が必要だということなのかもしれない。たとえその視点というものを、想像することしかできないのだとしても。

人間は自分で望んでもないのに、まるで何かに力ずくで促されるようにしてなぜ悪行に耽るのでしょうか」(Ⅲ⁻36)とアルジュナは問う。

それは情欲があり、怒りがあり、動性優位の徳性があるから(Ⅲ⁻37)」と神は答える。

「汝はまず、感覚器官の働きを制御し、あらゆる絶対的智慧と相対的智慧とを破壊するこの邪悪な敵(情欲)を破壊せよ(Ⅲ⁻41)」

(相対的智慧:直感による智慧/絶対的智慧:すべての物質的な現象を超えた智慧

感覚器官の働きをコントロールし、それらの思いの奴隷となるのではなく支配者となるべきである。そうすれば情欲と怒りは、人を混乱させることはできない。

感覚器官とは、10頭の馬で示される、5つの知覚器官(目、耳、鼻、舌、皮膚)と、5つの運動器官(口、手、足、生殖器、肛門)のこと。
また、それぞれの感覚器官には、それに関連する対象物に対する愛着と憎悪とが本来定まっている。

人は、その定めに従わず、支配されずに生きねばならない。
愛憎に突き動かされるように行動していれば、戦いも起こるだろうし、地獄の中に生きるようになるだろう。

 


クリシュナ神はヨーガ行者の神であり、すべての行為をこの神に捧げるということは、神に集中するということ。
心が不安定で動揺していれば戦うことはできない。
そのためには、心のなかに欲望や不安や混乱があってはならない。

アルジュナが殺すという思いを捨てて自分は根本自性の特性に促されて行為をするのであり、しかも実は神自身がそれらの特性を指示していると気付き、更に、戦うにあたっては行為者であるという意識のすべてを神に捧げたならば、自分は罪を犯すどころか最高の善をも成し遂げられるという事実に、アルジュナは気付かねばならない。」
とスワミ ヴィラジェシュワラは解く。

スワミ ヴィラジェシュワラは、1970年IBM社にコンピューター部門の研究者として就職し、在職中に数多くの論文を出版。米国滞在中も熱心にヴェーダーンタ哲学を学び、インドに帰国後は聖典を科学の視点から解説した。
当時の米国にあって、スワミはなにを見、なにを思ったのか。

当時の禅者が日本の政策を応援し、若者に「喜んで死んでいけ」と説いたその心と、ヨーガが教える「無執着なる行為を為すべき」との教えの違いを、私も深く考え抜きたい。

なお、訳文は「科学で解くバガヴァッド・ギーター」たま出版  2014/5/22
スワミ ヴィラジェシュワラ (著), 木村 慧心 (監修), 岡太 直 (翻訳) からの引用である。

 

禅と戦争

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