蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№161 2019夏 ゼミナール修了

7月5日から始まった、「『インテグラル理論』出版記念オンラインゼミナール」が本日修了した。

なんと、山へ芝刈りならぬ出稼ぎに出た期間よりも、ゼミナール受講期間の方が長いという…。そのことを話すと娘も笑っていた。自分でも笑えてしまうが、自らの人生の中で何を大事にして生きるかという感度に関しては、私は既に自信を持っている。

本日のゼミナール最終回に参加しながら、「ブログのサブタイトルを変えよう」と思った。

★以前は「心身一如を目指すヨーガ教師の日記」となっていましたが、変わっています。ご確認ください。

探すべき一如の状態なんてどこにもない。今、既に一如だと思えたからだ。

この1年半、苦しかったなあ!でも私は逃げなかったよ、この苦しさから。
悩み抜くことで動きが取れなくなり、現実も停滞して困ったことになった。家族にも迷惑を掛けた。でも、それでも私は悩み抜くことを優先したかった。

ここで何となく上手に「なんでもないもーん」というフリをして対処することは、できなかったし、出来たとしてもしたくなかった。それはある意味とてもエゴイスティックな行為だったと思う。ここで開き直って動かないことで、この先自分の存在に凄味が増すような気がしたのだ。

結果、何が起きたかというと、大変なのに「怖くない」ということが起きている。
そして、自分がやってきたことを人に伝えたい、それでもって生きていきたい、という思いが高まっている。
学んだこと、気付いたこと、工夫してきたこと、それらを黙って誰にも言わずにこの世からいなくなりたくない。

発達ということが、現象世界に何が起きていても過剰な怖れを抱かず、常に、この世界を含んでいるもっと大きな何か(ヨーガの言葉でいうところの”絶対者ブラーフマン”)と共に一体である安心感を感じつつ、そのなかで存分にジタバタ出来るということであれば、私は強く「発達の促進」を推奨したい。

私は長崎の出身なのだが、高校時代、毎日通う道に「聖母の騎士修道院」があった。
私自身はキリスト教を信仰している訳ではないが、祈りの街と呼ばれる長崎に育ち、バスに乗って来られる神父様に面識はなくとも挨拶をし、40年近く前にカトリックの友人からもらったメダイを今も身に付けている。

その聖母の騎士修道院に居たのが、あのコルベ神父なのだけれど、私が思う発達の究極の姿はこの方だ。
「代わりに私が死にましょう」
と言えるのは、犠牲とかではなくて、この世の「目に見える世界」を超えた何かを信じているからなんだと思う。
困難の最中にあっても、他者と自らの中に生きるアートマンを信じぬきたい。
スピリチュアリティ霊性)という言葉を使わずに、霊的でありたい。


さて、加藤先生から大きな課題を与えられたので、明日早速やりますよ!
乞うご期待。

今日の所は、「自らの経験してきた痛み・苦しみを通じて他者に貢献したい」ということを改めて思い出させてくれた今回のゼミナールの修了を祝して、乾杯。
そしてこの学びを共にして下さった皆様に Bon voyage!
それぞれの旅をして、いつか必ず対面でお声を聴かせて下さい。
心からの感謝を贈ります!