蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№304 自分の中にある信念①

かねがねトラウマケアは万人に必要なのではないかと思ってきたのだが、腸と脳に関する勉強をして、約4割の方が18歳までにトラウマ的な体験を持っており、そのために年齢を重ねたあとも心身の不調を感じているということを知った。

トラウマ的記憶はカラダに刻みこまれている。頭の中にではなく。
似たような感覚をキャッチすると、自動的にストレス反応が起きてしまう。

誰しも幼い頃、親を始めとする周囲の大人の何気ない一言を、批判的に聴くことは出来ない。そのため、自らに対する誤った信念を持ったまま成長し、長じてからもその信念を改変できずにいる人がとても多い。

記憶のほうを書き換えることは可能である。しかしちょっとコツが必要である。
どうすればいいのかというと、体の誤作動を修正していくことから始める。

自動運転で生きているのはとても便利なのだが、そもそも入力されたプログラムがおかしかったら大変である。どうにも進行方向がズレてしまっていたり、場合によっては壁にぶつかって大破してしまうこともあるかもしれない。悪路を走り続けるために、車体に無理がきて壊れてしまったりすることもありそうだ。

まず、どんな運転状況なのかを観察することから始めなければ。
どうもこれはマズイと思ったら、いっそのことマニュアル運転に変更する。
これが「身体的アプローチ法」のキモになる。

生きるに当たって肉体を使っていない人はいないと思われるので、普段使用しているものを改めて意識的に動かしてみることで、「えー、なんでこんなことに…」ということに気付くことができる。意識化というものだ。

量子論でも、観察する行為が物質に影響を与えると言うそうだが、人間のからだもモノである以上、小さな粒からできているのであって、「私だけはそういった法則から自由だ!」ということを言い切れる人はほとんどいないだろうと思う(中には、そういう心持ちで世を渡っている人もいていい)。

なので、“私”が自分の肉体を「観察する者」になってしまう意気込みである。
客観視というアプローチだ。

この自分の肉体の客観視というのは、愛を持って自分を見る行為に他ならない。
客観的に見るのだから、ジャッジをしないことがなによりも大事だ。
こういったアプローチで自分と向き合うことを意識的に、常時(もしくは定期的に)行っていない限り、自分のことなんててんで知らないのである。目は外に向いているので、人は自分以外のことばっかり気にしている。

視力には本来二種類あって、外を見る力と自分の内側を見る力がある。
ウィルバーの訳書ではこの内向きの眼を「観想の眼」と表現しているし、インドの古典の訳書だと「霊の眼」とある。暗闇を照らす灯台の灯り、もしくは星の光のようなものかもしれない。
闇夜で道に迷う旅人に、ゆく道を示すようなこの内面の視力を、養っていきたいものだ。