蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№156 ヨーガと発達って関係あるのか、という問い

平常通りの毎日に戻り、レッスンや補講などであちこちに出かけている。
一つところにじっとしている生き方を、ここ10年ほどしてこなかったのだが、思うままに自由に動くことができないという状況は、人の心の在り様を型に嵌めるように決めてゆくかもしれない。
今ここにじっとしていながら、同時に何処にでも居ることができるという心を持つことは、やはり非常に大事なことだ。

動かねばならないのではない。動かなくてもいい。
「動けない」と思い込んでしまうことを、どんなときにもしないで生きたい。


今日は雨。
山陰はお盆を過ぎると急に秋の気配になるのだが、一雨ごとにますます季節は移ろっていくだろう。とは言えもう一度や二度は、盛夏が戻ってきたような思いをするだろうな。

さて本日、初めてお目に掛かる若い女性と、ZOOMでミーティングをした。

大阪の出版社の方で、オンデマンドでの出版をご提案して頂いたのだった。
地図を見ると、大阪のお友達・Mさんご愛顧のお店「レモンの樹」の傍にある会社ではないか。突然、何とも言えない親近感が湧いてくる。

さて、このM田さんという方が、インターネットという海の中からヨーガのHPを渡り歩いて、私のHPのお問い合わせページからご連絡を下さった。

なんで私なん? と思いますでしょ。
私もそう思い、もちろんお尋ねしましたとも。
だってヨガの先生って、たったの3日で資格取れたりするらしいし、吐いて捨てるほどいるから。

彼女が仰るには、

①ヨーガなのに、医学的・科学的根拠を基に語っている
②自分らしく生きていくため、苦しみを乗り越えるためのヨーガを提供している

と感じられたとのことで、他の多くのHPは「感覚的」にヨガを語っているが、なんだか違うなあと思われたとのことだった。非常に有難いコメントだと思うが、逆に言うと、ヨーガという市場の問題点も浮き彫りになっている。

あちらから頂いたご質問としては、
「なぜ、ヨガと発達が関係があるのですか」というもの。

この質問には落ち込む。
人にとって今のヨーガって何なんだ…と思ってしまう。

私はヨーガに出会う前に、ウィルバーの本に出合った。
「新しい知性の胚芽」を育てる為の実践方法としてヨーガを選んだ。
伝統的ヨーガは、この目的を完璧に果たしてくれたと思う。
理論があり、歴史があり、人の変容の手助けをしてきた実績がある。

私の周囲では「ヨーガを行じることで賢くなる」という言葉が、当たり前に信じられている。これは現在、早稲田大学の人間総合研究センター所長をされている熊野宏明先生のラサール時代の体験談だそうだが、私自身の実体験でもある。まあ、賢さの定義にもよるだろうが…

性格が変わる。怒りを克服できる。恐れが無くなる。
感情に振り回されなくなる。集中力が増す。
自分が生きていることへの安心感が生まれる。
この人生だけがすべてじゃないんだ、という余裕が生まれる。

自分自身の肉体や心、感情の動きをより深く感じ、意識化を行っていくことで、自らを俯瞰する観察者の視点が養われていく。このために、体操という身体的な取り組みが非常に重要になる。

体の変化なんて、内面の変化のおまけみたいなもの。

自らを変容させる手段としてヨーガを用いてきたが、みんなヨーガを何だと思っているんだろうなあ。
でもここで私が何と言って語っても、「やってみないとわからん」世界でもある。

お師匠様や自分の、あまりにも声の小さいことにショックを受けた。
しみじみ哀しい。