蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

不幸から始まる何か

今日は雨の1日でした。一雨ごとに爛漫の春に近づいていきますね。
鴬も上手に鳴くようになりました。

先日の講義の際、「自分のマイストーリーを語る」ことについて話してくださった方がおいでになりました。その言葉を受け止めて、自分のマイストーリーを考えようと努力なさっておられる方がおられます。

「自分の仕事に対しての理念を語れるか」というテーマから、こういう話題になったのですが、「なんのために、今、このことをしているのか。この様に生きているのか」が今の自分なりに言語化できることが、生きることを助けるのだと思っています。
もちろん、言語化のためには素材が無ければならず、書籍を読んだり、専門について学びを深めたり、人に出会ってそのご経験について耳を傾けることも大切です。

そこでふと、私がこの道に進むきっかけを作ってくれた「不幸の感覚は新しい知性の胚芽」というK・ウィルバーの言葉を思い出しました。
ヨーガでも「不幸と病気は優れた教師である」と言いますが、「なぜこんなことに」「なぜ私がこんな目に」と思う時、確かに私のエゴが壊されて、そこから新しい自分が生まれていく、ということが始まったように思うのです。

不幸のどん底、と思っていた時、某インド人の「ヨーガ(アサナ・調気法・瞑想)を毎朝やると人生変わる」という一文に出会って、試してみたら本当に変わりましたね。
あそこまで不幸の感覚が無かったら、信じてみたいという気にならなかったかもしれません。

これは確かに起こったことなのですが、「ヨーガ」でなくとも「意識的な実践」であれば同じことは再現可能です。今、そのことをお教えする活動をしています。何をするにしても、自分でその訳が分かった、確信のある実践であって欲しいと思います。

不幸だと思う時こそ、身体的な動きを伴う実践を行う。
強くお勧めします。