蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№157 やっぱり達成ちゃんだった

昨夜寝る直前にブログ更新をして休んだところ、夢の中に規夫先生が出てきた。
場面は大学のようなところだった。
たぶん、ヨーガの活用法とウィルバーの思想が自分の中では切り離せないからかな。
まだまだ理解は浅いのだけれど。

夢はシャドウと向き合う大事なヒントを与えてくれる。
加藤先生にも、夢についてブログに書くといいよとアドバイスを頂いたのだが、記録をし忘れたりしてなかなかできていない。

瞑想を実践していると、夢を見ている自分を意識化できるようになる。
なので、見ている時には「明日これをブログに書こう」などど思っているのだが、起床後すぐに書き留めないと流れ去ってしまって後悔する。

うまい具合に、朝から日記に書き留めることができるものもある。

山の宿に通い始めてすぐのこと、子供を作ろうと言われて、怒り狂っている夢を見た。
でもその後の場面では、陣痛の最中。
助産師役の人がなんと、島根県松江市の某有名カフェのオーナー・バリスタさまだった。子供は生まれたのか、生まれなかったのかわからない。
私は何を生み出そうとしているのか。
今日になって考えると、この夢の意味するところは分かるような気がする。

私は金銭という結果に没入して活動をすることができないので、自分はオレンジ(合理性)段階に課題があるのではないかと思ってきた。
が、昨日のブログを書いて寝て、朝起きたところ、ヨーガを何かの道具として成果・結果・変化を求める在りようは正にオレンジ段階だと合点がいった。
だから話が平行線になるのかと思った。

変わりたいと思っている人は多い。どうしていいかわからなくて困っている人も多い。
「身体的実践の活用法」を教えようとしているのに、「ヨーガなら良さそう」と思っている人に出会おうとしてきたのが間違っていたんじゃないか。

「結果にこだわる=やっても無駄なエクササイズなんてやりたくない」からこそ、
エビデンスにこだわって来たし、ヨーガ療法に親和性を感じたのだ。

私はいまだに変容に対する期待がある。でも以前のような渇望ではない。
何かをしたら自分というものが変わるんじゃないか?!という思いはもうなく、今のままでもいいんだけど、変化もまたよし、というような気持ち。
悟っても、悟れなくてもいいんだけど、そこはいったいどんなところなのかなあと思う。

ヨーガを道具として活用し、別の側面からもヨーガについて考え抜いてきた「達成ちゃん」の自分ができる表現とは、何か。
達成ちゃんから先の世界を生きるには、どうしたらいいか。