蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

それ、本当なの?

コーヒー豆をミルで挽きながら、先生方のブログを読んでいました。
最近は「ブログ毎日更新」の課題のために、就寝前にも朝目覚めてからも、自分の中で湧き出してくる言葉を捕まえようとしているのですが、今朝は先に師と仰ぐ方々の言葉に引き込まれてしまい、そこから考えてみたり引用文献を調べたりと、自分の言葉が行方不明になりました。今日は何について書こうとしていたんだっけ…。
困惑することは自分の「当たり前」「楽ちん」に揺さぶりが掛けられることでもあるので、明日からは「読む→書く」という流れの中で更新をしてみようと思います。

教えを受けている方々の名言というのがありまして、何年経っても私の胸に刺さっています。
陰陽五行論・K師の「皆生き方が自己流なので苦しむ」というお言葉は、ヨーガの教えとまったく同じなのですが、多くの弟子を前にしてオブラートに包むことなく言い切られたことが衝撃でした。師としてのお覚悟をひしひしと感じ、「先生がそのおつもりなら!」と修行熱が掻き立てられた瞬間でした。
伝統芸能の師である井田先生は、課題レベルを上げられてこちらが呆然としている瞬間に、「楽しいね!」と笑顔で言い切るという必殺技をお持ちです。それに乗せられてずいぶん遠くまで来てしまいました。
ヨーガ療法の業界で有名なのは、慧心師の「良く書けてます」というコメント。実はその前の部分に『今のお前にしては』という言葉が隠されているそうです。「今、自分が在る段階でコツコツ努力せよ」という親心が感じられます。

ヨーガを実践法として愛する理由の一つは、「師から教わったことを疑ってかかれ」と教えられる点です。
自らの実践と体感を通して理解せよ、ということなのですが、私自身は戒律(ヤマ・ニヤマ)などについても考えて(疑って)きましたし、「ヨーガの教えはほんまに本当なんか?!」という探求心から、現在ご縁頂いている他分野の先生方と出会えたということもあるので、疑いを推奨するヨーガの在り様がとても好きです。理解が及ばない点は未だに多々あるわけですが、これまでのところ裏切られてはいないのでヨーガ教師であり続けています。

昨晩、ヨーガ八支則の始まりである「非暴力」の教えについて「あ、わかった!」という感覚があったのですが、言葉は飛び去って行ってしまいました。「こんな教えがあります。分かりましたか?やってみましょう」などという乱暴な指導はしたくなく、自分が咀嚼し得た物事を、自分にできる表現でお伝えしたいと願っていますが、身口意に亘る実践を求めるヨーガの戒律は、人が単純に理解している以上の意味合いを含んでおり、ご指導はとても難しいです。この難しいところを土台として、その上に位置する体操実践は更に深遠な智慧を含むはずなので、どこまでそれを理解しているのかと哀しい気持ちになることがあります。「自未得度先度他」の思いでやっていくしかありません。
「ヨーガ=ポーズ=痩せられる」という単純なロジックでご指導ができれば、どんなに心が平安であったろうかと思います。「悩みや課題を克服するためにヨーガでご支援を」と申し上げて仕事をしているけれど、成長・発達はいいことばかりではありませんので、常に葛藤があります。せめて自分自身もその葛藤から逃げない生き方をすることが、指導に当たる者としての義徳であろうと思っています。