蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№255 やり方は色々あるのでは

今日は、年に2回行われる研修会だった。
4年間のうちに、こういった研修会の参加を通じて単位を取得し、必要数に達していれば資格更新となる。

ヨーガ療法の勉強を始めたのは2007年なので、今年で13年目になるわけだ。
ということは、ウィルバーの本に出会って14年目ということ。

最初の頃、わたしの中で、先生は神さまのようだった。
ヨーガの師匠なので、もちろん嘘は仰らないが、ヨーガ以外の分野では先生にも知らないことがある。それは当然なのに、その当然のこともわかっていなかったかもしれない。

ヨーガは実践法として優れていて、「なにをすればいいか」が明示されている。
しかし、これを高いレベルでやり抜ける人はなかなかいない。
そのため、「自分はダメだ」と思っているセラピストが多いような気がする。

ヒマラヤのアシュラムでは、心肺機能の維持のために息が上がる反復の動きを行う。
これは、欧米で行われている「フィットネス・ヨガ」では見られない動きだが、高高度の土地で生きるためには必須の取り組みだという(私はヒマラヤには行ったことがない)。

日本の建物の2階は海抜7mくらいだと思うが、普段からこういう動きに習熟していない方の場合、高高度でなくとも「ゼエゼエハアハア」と息が上がるわけだが、もちろん師匠はそれがお気に召さないため、お小言を頂く事になる。
室内にハッとした空気が漂う。
それは決して、「よーし、ここから頑張るぞ!」という気配ではない。

ヨーガ以外のことを学ぶ機会にも恵まれ、今、そんな学びの仲間と協働を行っていこうとしている。
そこでは、自分がわからないことは分からない、できないことはできないことして、素直に開示をし、力を借りていく。
それは単に棲み分けで、あなたが海なら私は池でやるよ、といった風情であって、「できない自分でごめんなさい!」ということではない。

他の学びの場で、当時の自分にとっての「できないこと苦手なこと」を求められ、悪夢を見て叫んだこともあるが、その学びの場では「注意される」という経験をしたことがない。
心理的内的な圧はかかるが、外的な圧力はかけられたことがない。
「これでもいいんですか?」という思いだった。
その場を通じての経験と、ヨーガで学んだことに助けられて、自分は随分変わったなと思える。

今日の研修会で、とても謙虚で優しい先輩が「自分はまだまだだ、勉強が足りない」と仰られているのを聴いて、なんだか哀しくなった。
私たちの勉強が足りるのはいつになるだろうか。

懐の深いヨーガというものの世界に、多くのものが含まれている、と主張するのは、私には融合のように見える。
「ああ、ヨーガはそんな考え方はしないよ。だからそれぞれを大事に、一緒にやってみよう」というのが統合じゃないのかな。統合からじゃないと、新しいものは生まれないんじゃないかな。
高いレベルでの実践を求めることで苦しくなる人がいるなら、思いもよらなかった違うやり方を試してみてもいいんじゃないかな。

研究総会に、インテグラル理論の方々を招いてご講演頂きたいと思ってきたけど、その夢は修正しないといけないのかも、と思った今日。