蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

「私とは何なのか」の問いに対して

2019年初の投稿になります。
昨年はあれやこれやと激動の年となりましたが、それは何も自分ばかりではないように思います。皆様がそれぞれに様々な体験をなさり、泣いたり笑ったり、正に生きることに必死で取り組んだ1年であったことでしょう。私もまたそうであったということだと思っています。

いくつかの学びを行っている訳ですが、今年最初の稽古は筝曲でした。
お師匠様が私の技量をご心配なさって、早々にお声がけ下さいました。フライングでお稽古始です。同じ曲を繰り返し90分弾き続けることを、まだ辛く感じる程度の技量です。
お茶の御稽古始では、水屋のお手伝いに上がらせて頂きました。
茶会ではなく、ご自宅で影の仕事の勉強をさせて頂けるのは大変光栄なことです。
待合でも、本席でも、毎年決まったお軸を拝見させて頂くのですが、いつも変わらぬものが変わらずにそこにあるということが、一見当たり前のようでありながら、実はとても儚いものであるがゆえに尊いと、感じさせられた年初となりました。

さて、月に一度東京から来て下さる師との講座が、昨日開講されました。
そこではヨーガでも慣れ親しんだ哲学的な問いを与えられますので、思索を巡らせる時間に私は静かに瞑想を施します。そこで昨日提示されましたのが、本日の表題の「わたしとは何なのか」ということ。
このことについては、自分をこの世から無くしたいと思い詰めていた頃にとことん考え抜いた覚えがあり、私なりの明確な答えがあります。この答えが正解かどうかは、この体の生を終えたときに分かるのではないかと思っています。
明日からの神戸レッスンに向けて資料を調えるにあたって、何の資格を持っているやら、どんな仕事をしているだなどということを書きはするのですが、「お前は何者か」と問われれば常に「個などない、命そのものである」と言い切る人生を送りたいものです。

10年近く昔になりましょうか、マタニティ・ヨーガ指導のための講義を受けた際の講師(老医師)が、ひとりの受講生の手を取り「これは何か」と問われました。問われた方はとてもお困りになりました。私はその時「それは人なり」と思ってフッと笑ってしまったのですが、それを見逃さずに「今、なぜ笑った。君ならなんと答える。」と切り返されました。「出産は路上でもできる。タオルを2枚持ち歩きなさい。片膝を立ててその場にしゃがみ、タオルの上に産めばよい。もう1枚のタオルで赤子の顔を拭い、そばにいる人に救急者を所望せよ。何ということはない。」とのたもうたそのご様子を今でも覚えています。そんなお産はできなかったけれど。当時もう90歳近かったあの先生は、今何処においでになるのでしょうか。

さて、今年も決して本質を見失わないように、リアルに生きてジタバタしても、大事なものと繋がっていられますように。