蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№360 情緒的なストレスの緩和

アルジュナよ。すべての者の信仰心は、その生まれつきの性質に応じて形成される。信仰心がその者を形成するのであり、その者の信仰心のあり方が、まさにその者自身なのだ。」  バガヴァッド・ギーターⅩⅦ-3

 

 

H・セリエは、ストレスの生理的影響はおもに体内の三種類の器官に働くことを発見した。
内分泌系では副腎に目立った変化が起こる。

免疫系では脾臓、胸腺、リンパ節が影響を受ける。

そして消化器系では腸の内壁が影響を受ける。

 

ストレスを受けたラットを解剖すると、副腎の肥大、リンパ組織の縮小、腸の潰瘍がみられたそうだ。

こうした変化はすべて、中枢神経系とホルモンの作用で起こる。

 

なんらかの脅威を知覚すると、脳幹の視床下部CRH(副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン)を出す。

CRHは少し移動して、頭蓋骨下部の穴に収まっている下垂体に到達する。
下垂体はCRHの刺激を受けてACTH(副腎皮質刺激ホルモン)を放出する。

ACTHは血流にのり、腎臓上部の副腎に到達し、副腎皮質に刺激を与える。
すると、副腎皮質ホルモン(コルチコイド)が放出される。

 

副腎皮質ホルモンのうち、最も知られているのがコルチゾールである。
コルチゾールは体内のほぼすべての組織に何らかの方法で働きかける。

 

視床下部―下垂体―副腎は、一連の機能の流れを形成するひとつの軸と考えられる。

この軸が、ストレスに関わる体のしくみの中心であり、感情が免疫系その他の器官に直接的な影響を与える経路なのである。

 

はじめに上げたストレスの三大影響はそれぞれ、
副腎に対するACTHの亢進効果

免疫系に対するコルチゾールの抑制効果

腸に対するコルチゾールの潰瘍発生効果、によるものだということ。

 

例えば、喘息、大腸炎、関節炎、がんなどの治療でコルチゾール系のクスリを処方されている人の多くは、腸からの出血の危険性があるため、腸壁を保護するための別の薬剤も取る必要がある。このコルチゾールの影響によって、慢性的なストレスが腸のがんになるリスクを高める理由の一部は説明できるだろう。

 

さらに、コルチゾールは骨密度を低下させる働きもする。
うつ状態の人はコルチゾールの分泌が多いため、閉経後に骨粗鬆症と大腿骨骨折が多いという。

 

もちろん、こんなおおまかな説明ではストレス反応を語るにはまるで不十分だ。
ストレスは事実上体内のすべての組織に影響を与えるのだから

意識するしないにかかわらず、攻撃あるいは脅威だと知覚しただけでも反応は起こる
結局のところ、ストレッサーはすべて、生きものが生存のために不可欠だと感じているものが欠けていること、あるいはそれがなくなるかもしれないと恐れていることなのである。

セリエは書いている。
「躊躇なく言えることは、人間にとってのいちばん重要なストレッサーは情緒的なものである。」

 

ヨーガの戒律・ニヤマ(Niyama お勧め事項)のひとつに、サント―シャ(Santosha 知足)がある。
実はこれはストレス対処のため、そして心身の健康の維持増進に、この上なく重要な意味を持つ。

「今よりもっと悪いことになったらどうしよう」という恐れが、人の健康を損ねているように見える。同時に、人を救うまっとうな期待もある(足を掬う種類の期待もあるが)。

ああ、今日もこうして目覚めることができた!と毎朝驚きを持って目覚め、喜び、ほんの少しずつであっても、私の取り組みは何かの役に立っているはずだと信じ、また今日も一歩、歩みを進める。
そういう思考を持てるよう、自己を訓練する。それが知足の教えだと思っている。
バカみたいと考えながらも、実際にからだを動かし声を出せば、心身はその気になる。

疑り深い人は笑うだろう。
しかしこの教えが、人の神経系の働きをベストな状態に保つためのものだとしたら。

ヨーガでは師の教えを鵜呑みにするなと教えられる。
我が身で試して、自分で確信を持ててから信じる。
確信を持って言う。

教えは私を裏切らなかった。

しばらくバカになって、毎日胸に手を当てて「私は私のことを愛している!!」と語ることを40日続けてみたらどうなるか、数名の生徒さんと一緒に実験したことがある。
やはり、教えは裏切らなかった。

ただし、効果は練習量に応じて現れた。
量は質となるのなら、私だって頑張れる。

№359 私が決める

「憎むこともなく期待することもない(カルマ・ヨーガ)行者は、常に行為を放棄した者と理解されるべきである。実に二極の対立感情を克服した者は、容易に束縛から解放されるのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅤ-3

 

 

他者との関わり合い――とくに精神的な関わり合いは――は、私たちの生活のほとんど一瞬ごとに、ほとんど意識されないまま、私たちの生物としての機能に無数の影響を及ぼしている

 

健康な生活を送るためには、私たちの精神の働き、周囲の感情的な状況とからだの機能との関係における複雑なバランスを理解することが不可欠だ。

 

医学ではふつう、ストレスとは非常に厄介ではあるが単独の出来事、たとえば失業や結婚生活の破綻、大切な人の死などの出来事だと考えられている。
確かにこうした大事件は多くの人にとってストレスの原因になり得るが、もっと目立たない、しかしからだにもっと長期的な害をあたえるような日常的なストレスがある。

心のなかから生じたストレスは、外からはまったく正常に見せかけながら、からだに悪影響を与える。

 

心のなかのストレスに幼いころから慣れてしまった人々は、アドレナリンやストレスホルモンへの嗜癖が身についてしまうと、H・セリエは考えた。

(*ハンス・セリエ:ストレス学説を唱え、ストレッサーの生体反応を明らかにした生理学者

セリエは実験で観察した身体的変化を表現するに相応しい言葉を探していて、「たまたまストレスという言葉を思いついた。それは昔から日常的に使われていた言葉で、特に工学関係では抵抗に対して作用する力を意味していた」。

引っ張られて伸びた輪ゴムに起こる変化や、荷重をかけられた鋼鉄のバネに起こる変化を例にあげている。こうした変化には肉眼で見えるものもあれば、顕微鏡で見なければ分からないものもある。

ハンスのあげた例は、重要なポイントを分かりやすく示している。
ある有機体に課せられた要求が、その有機体が通常満たすことのできる能力を超えているとき、過酷なストレスが発生するということである。
輪ゴムなら切れてしまう。鋼鉄のバネなら変形してしまう。

ストレス反応は、感染や負傷によってからだがダメージを受けたときに起こる。
心理的なトラウマによっても、そうしたトラウマを負う恐れがあると感じただけでも――それが単に想像に過ぎなくても――ストレス反応は誘発される。
たとえ本人が「良いストレス」だと信じているときでも起こりうる。

 

ストレス体験には3つの構成要素がある。
1 出来事:肉体的でも精神的でも、その生物が脅威と感じること(ストレッサー)

2 解釈システム:人間の場合は神経系、とくに脳

3 ストレス反応:知覚された脅威に対する生理面、行動面での適応反応

 

何をストレッサーとみなすかは、出来事の意味を解釈する処理システム次第となる。
ストレス刺激を受ける人物の性格と、現在の精神状況も大きく影響する。

 

ストレッサーとストレス反応との関係は、一律でも普遍的でもない。
また、ストレス体験はどれも独自のもので、今現在のことだが、過去からの余韻をひきずっていることがある。

各人の気質と、それ以上に各人の人生経験によって、ストレスの受け取り方が異なってくるのである。

ラージャ・ヨーガの瞑想では、過去の振り返りを行う。
過去の振り返りを「現在」行うことで、出来事に対する自分のストレス反応を知り、この先の反応をどのようなものに変えていくかを改めて決断していく

ヨーガは徹底的に、自分自身の調査活動である。
私は私というものをよく理解した上で、今この瞬間、この様な在りようである自分自身を全面的に愛し受け容れる。

そして同時に、これから先も死ぬまで変化を受け容れ、今日の私を微笑ましく振り返ることのできる度量を年々育てていきたいと願っている。
その取り組みを「人生」という長いスパンで捉えているので、焦る必要がない。

カラダがやわらかくなるのではない。
心がやわらかくなることが、ヨーガの効能である。

№358 イヤイヤやる練習

「それなる絶対者ブラーフマンは光明の中の光明であり、すべての暗黒の彼方におられる。それは智慧であり、智慧の対象であり智慧により到達されるべきものである。それはすべてのものの中の心臓内に宿っておられるのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅢ-17


コロラド大学の研究者たちが、症状が消える時期と再発が交互に起こる再発-寛解多発性硬化症の患者100人を対象にした調査がある。
人間関係に深刻な問題がある、あるいは経済的な不安を抱えているなど、質の上から見て過酷なストレスを負った患者は再発率が4倍だった。

 

多くの人が最初の症状が現れる少し前に、おおきなストレスとなるような出来事に遭遇していた。

ストレスの種類は様々で、愛する人の病気や死もあれば、生計の道がとつぜん脅かされたというものもあり、要するに人生を永久に変えてしまうような、自分では対処も適応もできないような出来事があったのだ。長期に及ぶ夫婦間の対立や、仕事上の責任が重くなったこともあった。

 

論文の著者は書いている。
「共通する特徴は、困難な状況に対処する能力が欠けていることに少しずつ気付いてきたことで、それが無力感や挫折感を呼び起こしたのである。」

 

慢性疾患を抱えた人たちは、まるで自業自得だと言わんばかりに、人から責められたり、自分で自分を責めたりすることが多いのだ。

 

彼等は子供時代の条件付けのせいで慢性的なきびしいストレスにさらされ、「闘うか・逃げるか」反応を起こす能力を損なわれている

 

根本的な問題は、いろいろな論文が指摘している人生上の一大事件など外部のストレスではなく、闘争あるいは逃走するという正常な反応をさまたげる無力感、環境によって否応なく身につけさせられた無力感なのである。

 

この無力感のために、生じた精神的ストレスは抑圧され、したがって本人も気付かない。

ついには、自分の欲求が満たされないことも、他者の要求を満たさざるを得ないことも、もはやストレスとは感じられなくなる。

それが普通の状態になる。
そうなればそのひとにはもはや戦う術がない。


まわりがどう思うか。
どんなことを期待されているのか、どんなことを求められているのか。
そんなことについてばかり意識を働かせて、「責められないか、間違っていないか、失望させはしないか」を心配してばかりいないだろうか。

自分を取り巻く人の思いよりも強く、自分の欲求確かにを感じ、言葉にできているだろうか(それを人に話さなくとも)。

 

「イヤイヤやる」ことから練習する必要のある人がいる。
こういう人が、実はかなりいると私は読んでいる。

自らの本心を読むことができず、他者の基準に自分を適わせようと、外向きの努力を続けた挙句、自分の内なる声を聴きとる聴力を失ってしまっている。

だから、目を閉じるところから練習しなくてはならない。
誰もジャッジしていないという環境の中で、安心して自由にしていていいことを学び、ゆっくり時間をかけて「だれに何と思われてもいい」と思える練習を積んでいく。

路上教習に出てもはじめは事故ばかりで何度も泣くだろうが、諦めることはない。
時間のかかる訓練は人を裏切らないものだ。

どうしても時間がかかる。
でも、10年かかってもいいではないか。
10年後に楽になっていたいなら、けっして焦ってはいけない。

№357 まだ道の途中だから

「もしも汝が意識をしっかりと我に集中させることができかねるならば、絶えずヨーガを行じ続けて(アビヤーサ・ヨーガ)我に達するよう努めよ。」
  バガヴァッド・ギーターⅩⅡ-9

 

 

ここ数日の文章は、かつて私が大いに影響を受けた書籍の内容に即して書き綴っている。この先を早く知りたい方は書籍を手に取って欲しい。文末に情報を記載しておく。

当時は新刊だったこの本を初めて読んだ時の衝撃を、今も肌で覚えている。
「すべて私が悪いのではなかったのか」という思いだった。

昨日YouTubeで公開した対談で、「病になったのは私のせいなのか」というテーマでお話をさせてもらったが、あなたのせいなんてことは決してないのだ

(対談はこちら https://www.youtube.com/watch?v=ykOlK8yaFmI

様々な人に助けられて納得に至ることができたからこそ、同じことで苦しんでいる人と手を携えて道を歩んでいきたい。

この本を手に取ったころは、まさか自分がなにかの先生になったり、不特定多数の方に向けて文章を綴ったりすることになるなどまったく想像しなかった。人生は実に不思議である。

人間の肉の目で、未来など決して見通せないのだから、そのことについて思い煩うのは貴重なエネルギーの無駄遣いである。
今すぐ他の何かに集中を移して、今この瞬間にこうしていることの不思議に思いを寄せられるような心身の使い方へシフトして欲しい。
考えることをあっさりと放棄して、呼吸や動きに身を委ね、諦めず何度も繰り返すしかないが、その方法は確実に人を救ってくれる

 

今朝目覚めた時に、ふと思い出したことがある。
ヨーガ教師になるための勉強をしているとき、毎月課題が出た。
自分の過去を振り返り、聖典智慧に即して改めて考え直すというものだ。
3年かけてこの作業を行い、課題こそ提出しないが、それは今も続いている。

ヨーガを行じる者は、過去の自分の記憶を毎日アップデートし、自らを救うような素材に変えるために浄化を続けていく。
だからこそ、無智で愚かであったかつての自分のことを、今、心からいとおしく思える。

ラージャ・ヨーガでは、過去というのは自分の行動原理を理解するための重要な素材だ。
安心した状態でそれを改めて取り上げて、当時の自分の心身の在り様や判断の基準を冷静に見つめ、自分なりに分析する。
過去の思い出というが、今とり上げればそれは現在の取り組みである。

さて、徹底的に自分について考え抜くが、これにはもちろん正解はない。
今の自分の理解度で解釈も全く違うだろう。かつての宿題をみたら、今の自分はその深刻さを笑って慰めてあげられるかもしれない。

宿題が返された時、師匠のコメントが書き込まれており、それは赤い字で「よく書けています」というものだった。

ああ、じょうずに内省ができて、自分は成長しているのだなあ!と思ったものだ。
ところが、この言葉には隠された枕詞があるらしい。
「今のあなたにしては」、というもの。

ヨーガは人を進化させるためのもの。
獣のような人から、普通の人、優れた人、偉大な人、神のような人へと成長するべく、歩みを止めずにヨーガを行じ続けよと教わる。

その成長の過程で、今の私にとって、前よりもちょっとだけ高い視点をもって過去の自分から学ぶことができていれば、それでいいんですよ、という意味でもあり、神みたいな人になるのは誰にとっても容易ではありませんね、という意味なのだと思う。

少しずつでいいのである。
今になって分かることは、かつて自分は「神のような人になれない自分はダメだ!許されない。生きている価値がない。」と思って自らを責めていたということだ。

智慧を授かるということは、人はそもそも愚かであると知ること。
なーんだ、そうだったのか、という感じなのだと思う。

普通の人Dから普通の人D‘になれただけでもすごい~、と思えるようになったことがヨーガを辞めない私へのご褒美である。
AだろうがDだろうが(上だろうが下だろうが)、私の人間としての目では見通せないから、今この周辺の景色を見るだけ。

ちなみに同じことは、茶道を通じても教えてもらったと感じている。

先生になってもいいよと言って頂いて、先生にならせてもらったが、実際になってみてわかったのは、先生にも段階があるから焦ったり恐れおののいたりする必要はなく、ただ諦めないでこの道でやっていこうという覚悟だけが人を導いてくれるのかな、ということである。

人は愚かなので、いつも間違っている。
だから「間違ったあなたが悪い!」と責めてくる人がいたら、その理解の方が間違っていると思うので、私はその説を採用しない。

だって優れた先生は、弟子が愚かであることを知っているので、優しく「おかえり」と言って迎え入れてくれるから。

自分には優しい先生が見つかってないだけなんだな、と思って救われた気持ちになってくれる人がいたら嬉しい。
先生も人間なので、優しい先生を目指して成長中なのかもしれない。

だから誰も間違ってなんかいない。
みなが道の途中だから。


ガボール・マテ著/伊藤はるみ訳 
「身体が『ノー』というとき ~抑圧された感情の代価」日本教文社 2005年

№356 安全でなければ

「我のみに意思の働きを据え理智の働きを集中させよ。そうすれば、汝はまさに疑いなく我の中に住まいするであろう。」
   バガヴァッド・ギーターⅩⅡ-8

 

自分の苦痛を人に知らせまいとする無意識の衝動が人の中にプログラムされていて、痛みや苦しみを押し隠そうとする行動を、反射的に取ってしまうことがある。

親の世代は自分自身の苦しみと共に生き、その人生の中で積み上げられてきたものに従って子育てをする。そして子供たちはその無言のメッセージを受け取って育つ。

幼くして、気にかけてもらうには努力がいること、自分の不安や苦痛は隠しておくのがいちばんいいということを学ぶ。

 

健全な母子関係では、子供が何もしなくても、母親は子供に愛情を注ぐことができる。
しかし、それが難しい人もいるし、難しい状況も時に生まれる。
親は聖人ではないし、完璧な人間でもない。
人生に起こることを支配することも、できはしない。

幼児の時に防衛法として身につけた生き方は、やがて強固なパターンとなり性格に組み入れられる。何十年経っても、同じやり方で人生に対処し続ける可能性が高い。

抑圧の力は私たちすべての中に働いている。
私たちはみな、程度の差はあれど自分を否定したり、裏切ったりする。
しかも気付かないうちに。

抑圧はストレスの主要な原因であり、病気の原因だと考えても、自分自身を咎め立てしたいのではないのだ。
ただそのことをもっと知って、多くの人が自らの治癒に繋がる行動をとってほしいということ。

羞恥心というのは「ネガティブな感情」のうちもっとも根深いもので、何としても避けたい。

恥を恐れる気持ちがどうしても捨てきれないために、私たちの現実を見る力が損なわれてしまう。

 

どんなことも笑ったりからかったりしないで聴いてくれて、見守り優しくしてくれる人がそばにいたとしたら、人生はどうなるだろう。子供の時に、そんな存在がいたらどうだっただろう。

 

頼りになる人がいつもそばにいれば、自分を尊重すること、気持ちをはっきり口に出すこと、物理的にせよ精神的にせよ、誰かがあなたの嫌がることをしたら怒りを伝えることができるようになっていたかもしれない

 

個人的な経験から言うと、私は頼りになる存在がそばにいないまま大人になった。
そして成人後に、心身の危機に直面した。
有難いことにその危機のお蔭で、どんな状態の私でも許し受け容れてくれる存在に出会うことができたために、それから先の人生や出会う友人、そして自分の子育てまでもが変容したと思っている。

人に助けられ、頼ることも甘えることもできるようになった。
自分に優しくできると、人の間違いも許せるようになった。

でも今でも時々、自らの心に嘘をつかずに振る舞うと、怒る人に出くわす。
そしてその人の中の抑圧の力を感じて、哀しい気持ちになる。

以前の自分は外ばかり見て、叱責されないように、落ち度無くふるまい褒められるようにという頭のなかの声に支配されていた。
今は心臓の中に、いついかなる時にも私を生かし慈しむ存在が宿っていることを体感として感じることができる。
ひとのこのような変容を可能にする、それが身体からのアプローチだと考えている。

完璧な人生などないし、私が「完璧だ」と思ってもそれは私からの視点に過ぎず、すべての人を満足させることなどできない。
だから批判する人は現れるだろう。
なにか辛いことを言われたとき、決して自分を責めることなく、それを口にしてしまう人の中にある抑圧という力に涙をし、せめて自分の身近にいる人の抑圧を緩めるようなかかわりができたらいい。

人を変えるのは、叱責や怒りではなく、愛情と慈しみだと信じているから。

 

 

№355  ノーといえることと健康の関係

「諸々の感覚器官の働きは強力であると言われている。これら諸感覚器官の働きを凌駕するのは意思であり、この意思をも凌駕するのは理智である。この理智をもさらに凌駕するものは真我(アートマン)なのである。」  バガヴァッド・ギーターⅢ⁻42

 

 

深刻な病気を抱えた患者の多くが、人生の重要なところでノーと言うことを学んでいなかったガボール・マテはその著書で語る。

病気も症状も、性格も状況も違っているが、心の奥底に抑圧された感情があることは共通していたと。

 

誰でも、他人ががっかりするかどうかなんてことに気を使わずに、自分の人生を生きていい
それなのに、なんと多くの人が他者の顔色を伺って生きていることだろう。

特に日本は、空気や世間体と言われる同調圧力が強い。
自己存在の奥底にある本心に従わずに生きることで、人に優しくできなくなったり、身の内に病を抱えることになるのはとても悲しいことだ。

ある人が身につけざるを得なかった生き方が、病気になった原因の一つかもしれないという表現は微妙な問題を孕む。生き方そのものを責められているような気になってしまうからだ。
しかし問題の核心はそこではない。

 

誰でも非難されるのは嫌だが、責任は負いたいと考えているだろう。

人生の様々な局面で、ただ反応するだけでなく意識的に対応したいと思っている。
私たちは誰でも、自分の人生の主導権は自分で持っていたい、自分が責任を負い、自分に関わることには自分で正しい判断を下したいと思っているのだ。

意識的でないところに、真の責任はありえない。
どんなときにも「随処に主」たらんとして修行をするのだ。
単に体操をするときであっても、そこに導かれていかなければ。

 

西洋医学的な考え方の弱点のひとつは、医師にだけ権威を与え、患者は単に処置や治療を受けるだけの存在と見ることがあまりにも多いこと。
人生におけるとても大事な場面であっても、ほんとうの意味で責任を負う機会を奪われてしまっていることがある。

 

病気になった人はけっして責められるべきではない。
それは誰にも起こりうることだから。

でも、自分についてより多くを学ぶことができれば、受け身の犠牲者になる可能性はそれだけ低くなるはず。

心身のつながりを知ることは、病気を理解するだけでなく、健康について理解するためにも必要である。

 

心とからだのつながりというと、ふたつの異なるものがあって、それらがなんらかの方法で互いに結びついているかのようだが、それは違う。
人が生きるということは、分けることができない働きの総和なのだ。

心のないからだはない。
からだのない心もない。
身体とこころ、という表現を使ってしまうけれども、からだは常に心身なのだ。

 

「人の体を治すのに、心をからだと別ものとして扱うのは大きな間違いだ」というソクラテスの言葉が伝わる。

 

心身相関、という言葉が当たり前にならなければ。
そしてそれがもっと広い文脈で活用されなければ。

悪性腫瘍をもつ患者の多くは、精神的、肉体的な苦痛や、怒り、悲しみ、拒絶といった不快な感情を無意識に否認する傾向があるという。

治療が功を奏するために、否定的といわれてしまう感情についても、安心して語り合える相手や機会を持つことがとても重要になる。
それは、人が本当に自由な精神を持って生きることを取り戻すための取り組みとなるだろう。

№354 感情の抑圧を解く

「そうした苦悩との関係の断ち切り方がヨーガと呼ばれるものであると知れ。」
   バガヴァッド・ギーターⅥ⁻23

 

病気になるにも健康を回復するにも感情が深くかかわっている

 

私たちの免疫系は、私たちの日々の経験と無縁ではありえない。

健康な医学部の学生たちの正常な免疫機能が、期末試験のプレッシャーによって抑制されたという報告がある。

 

漢方では、内臓と感情の関連について語る。

ざっと説明してみよう。

五臓:七感情
肝:怒り

心:喜びが過ぎること

脾(膵臓):思いわずらうこと

肺:悲しみ、憂い

腎:驚き、怖れ

信じられないと思うだろうか?

腎が虚しているとき、些細なことにびっくりしたり、怖くて物事が決断できなかったりする。
ああでもないこうでもないと考えてばかりいると、消化不良になってお腹にガスが溜まる。これはとても痛い。
クヨクヨすると胃も痛む。(胃は、漢方で「脾」と呼ばれる膵臓に大きな影響を受けている臓器)。
悲しいことがあってしょんぼりした後、痰が絡むようになって、それが咳や気管支炎に繋がったりすることもある。

観察すれば、皆さんも気付くことができるだろう。

 

先程あげた試験のプレッシャーに関連して、孤独を感じている学生ほど免疫系が強く抑制されることがわかったともいう。精神科の入院患者を対象とした調査でも、孤独と免疫機能低下との関連が示されている。

 

実際にはこういった証拠は山ほどある。
慢性的なストレスの長期的な影響は怖いくらいなのだと、私たち自身が知っておかなければ我が身を守れない。

試験のような外の世界からやってきたストレスだけならまだしも、自分のなかに「審判者」を住まわせ、じっと見つめられながら人生を送る人たちがいる。

その審判者が行動や考えの「良い・悪い」を判断して責めてくることが恐ろしく、心の底にある願望を認めることも満たすこともできずに生きることになる。
たまらなくつらいことであり、肉体にも大きな影響を及ぼす。

感情自体も電気的、科学的作用によって人間の神経系からホルモンが放出される現象である。

感情は、体内の主要な器官、免疫系の防衛機能、からだの状態を整えるために体内を循環している多くの化学物質の作用に影響を与え、また逆に利用されてもいる。

 

感情が抑圧されると、病気に対するからだの防衛機能が活動できなくなる。

「抑圧」
感情を意識から引き離し、無意識の領域に追いやること。

あなたが自分の感情を十分に感じ、それが教えてくれるところを理解しなければ、防衛機能が暴走し、健康を守るのではなく損なう結果になる。

ヨーガはこだわりを手放すことを求める。
頭で考えるだけでは出来ないからこそ、からだを動かし、呼吸を調え、過去の記憶を精査することによってそれを行っていく。からだからおこなうからこそ、感情も自ずと鎮まっていく。審判者に対抗できる、より愛情深い「観察者」を育てることもできる。

誰かに対して強い怒りを覚える時や、何かに対する強い愛着も、あなたの無意識の審判者を教えてくれるサインとなる。

誰かのことが許せないとき、「自分のなかの基準・正しさ」という審判者を改めて意識し、客観的に見つめることで、あなたはより一層自分自身と親しくなることができ、健康に近づくことができる。
無意識から生まれる感情を、無意識に誰かにぶつけても、あなたの健康が阻害されるだけだ。

そのことがだんだんとわかって来るので、ヨーガをしていると腹が立たなくなり、自分のなかから生まれる内的な感覚に、素直でいることができるようになる。
この世界が、怖くなくなるのだ。

真の感情を抑圧して生きている人は非常に多いので、ヨーガのような実践を通じて、自分自身を救い出すことと同時に、他者への共感も育んでいきたい。
私たちの中の生命原理・アートマンは、あらゆる人の中に宿っているのだから。