蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№355  ノーといえることと健康の関係

「諸々の感覚器官の働きは強力であると言われている。これら諸感覚器官の働きを凌駕するのは意思であり、この意思をも凌駕するのは理智である。この理智をもさらに凌駕するものは真我(アートマン)なのである。」  バガヴァッド・ギーターⅢ⁻42

 

 

深刻な病気を抱えた患者の多くが、人生の重要なところでノーと言うことを学んでいなかったガボール・マテはその著書で語る。

病気も症状も、性格も状況も違っているが、心の奥底に抑圧された感情があることは共通していたと。

 

誰でも、他人ががっかりするかどうかなんてことに気を使わずに、自分の人生を生きていい
それなのに、なんと多くの人が他者の顔色を伺って生きていることだろう。

特に日本は、空気や世間体と言われる同調圧力が強い。
自己存在の奥底にある本心に従わずに生きることで、人に優しくできなくなったり、身の内に病を抱えることになるのはとても悲しいことだ。

ある人が身につけざるを得なかった生き方が、病気になった原因の一つかもしれないという表現は微妙な問題を孕む。生き方そのものを責められているような気になってしまうからだ。
しかし問題の核心はそこではない。

 

誰でも非難されるのは嫌だが、責任は負いたいと考えているだろう。

人生の様々な局面で、ただ反応するだけでなく意識的に対応したいと思っている。
私たちは誰でも、自分の人生の主導権は自分で持っていたい、自分が責任を負い、自分に関わることには自分で正しい判断を下したいと思っているのだ。

意識的でないところに、真の責任はありえない。
どんなときにも「随処に主」たらんとして修行をするのだ。
単に体操をするときであっても、そこに導かれていかなければ。

 

西洋医学的な考え方の弱点のひとつは、医師にだけ権威を与え、患者は単に処置や治療を受けるだけの存在と見ることがあまりにも多いこと。
人生におけるとても大事な場面であっても、ほんとうの意味で責任を負う機会を奪われてしまっていることがある。

 

病気になった人はけっして責められるべきではない。
それは誰にも起こりうることだから。

でも、自分についてより多くを学ぶことができれば、受け身の犠牲者になる可能性はそれだけ低くなるはず。

心身のつながりを知ることは、病気を理解するだけでなく、健康について理解するためにも必要である。

 

心とからだのつながりというと、ふたつの異なるものがあって、それらがなんらかの方法で互いに結びついているかのようだが、それは違う。
人が生きるということは、分けることができない働きの総和なのだ。

心のないからだはない。
からだのない心もない。
身体とこころ、という表現を使ってしまうけれども、からだは常に心身なのだ。

 

「人の体を治すのに、心をからだと別ものとして扱うのは大きな間違いだ」というソクラテスの言葉が伝わる。

 

心身相関、という言葉が当たり前にならなければ。
そしてそれがもっと広い文脈で活用されなければ。

悪性腫瘍をもつ患者の多くは、精神的、肉体的な苦痛や、怒り、悲しみ、拒絶といった不快な感情を無意識に否認する傾向があるという。

治療が功を奏するために、否定的といわれてしまう感情についても、安心して語り合える相手や機会を持つことがとても重要になる。
それは、人が本当に自由な精神を持って生きることを取り戻すための取り組みとなるだろう。