蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№356 安全でなければ

「我のみに意思の働きを据え理智の働きを集中させよ。そうすれば、汝はまさに疑いなく我の中に住まいするであろう。」
   バガヴァッド・ギーターⅩⅡ-8

 

自分の苦痛を人に知らせまいとする無意識の衝動が人の中にプログラムされていて、痛みや苦しみを押し隠そうとする行動を、反射的に取ってしまうことがある。

親の世代は自分自身の苦しみと共に生き、その人生の中で積み上げられてきたものに従って子育てをする。そして子供たちはその無言のメッセージを受け取って育つ。

幼くして、気にかけてもらうには努力がいること、自分の不安や苦痛は隠しておくのがいちばんいいということを学ぶ。

 

健全な母子関係では、子供が何もしなくても、母親は子供に愛情を注ぐことができる。
しかし、それが難しい人もいるし、難しい状況も時に生まれる。
親は聖人ではないし、完璧な人間でもない。
人生に起こることを支配することも、できはしない。

幼児の時に防衛法として身につけた生き方は、やがて強固なパターンとなり性格に組み入れられる。何十年経っても、同じやり方で人生に対処し続ける可能性が高い。

抑圧の力は私たちすべての中に働いている。
私たちはみな、程度の差はあれど自分を否定したり、裏切ったりする。
しかも気付かないうちに。

抑圧はストレスの主要な原因であり、病気の原因だと考えても、自分自身を咎め立てしたいのではないのだ。
ただそのことをもっと知って、多くの人が自らの治癒に繋がる行動をとってほしいということ。

羞恥心というのは「ネガティブな感情」のうちもっとも根深いもので、何としても避けたい。

恥を恐れる気持ちがどうしても捨てきれないために、私たちの現実を見る力が損なわれてしまう。

 

どんなことも笑ったりからかったりしないで聴いてくれて、見守り優しくしてくれる人がそばにいたとしたら、人生はどうなるだろう。子供の時に、そんな存在がいたらどうだっただろう。

 

頼りになる人がいつもそばにいれば、自分を尊重すること、気持ちをはっきり口に出すこと、物理的にせよ精神的にせよ、誰かがあなたの嫌がることをしたら怒りを伝えることができるようになっていたかもしれない

 

個人的な経験から言うと、私は頼りになる存在がそばにいないまま大人になった。
そして成人後に、心身の危機に直面した。
有難いことにその危機のお蔭で、どんな状態の私でも許し受け容れてくれる存在に出会うことができたために、それから先の人生や出会う友人、そして自分の子育てまでもが変容したと思っている。

人に助けられ、頼ることも甘えることもできるようになった。
自分に優しくできると、人の間違いも許せるようになった。

でも今でも時々、自らの心に嘘をつかずに振る舞うと、怒る人に出くわす。
そしてその人の中の抑圧の力を感じて、哀しい気持ちになる。

以前の自分は外ばかり見て、叱責されないように、落ち度無くふるまい褒められるようにという頭のなかの声に支配されていた。
今は心臓の中に、いついかなる時にも私を生かし慈しむ存在が宿っていることを体感として感じることができる。
ひとのこのような変容を可能にする、それが身体からのアプローチだと考えている。

完璧な人生などないし、私が「完璧だ」と思ってもそれは私からの視点に過ぎず、すべての人を満足させることなどできない。
だから批判する人は現れるだろう。
なにか辛いことを言われたとき、決して自分を責めることなく、それを口にしてしまう人の中にある抑圧という力に涙をし、せめて自分の身近にいる人の抑圧を緩めるようなかかわりができたらいい。

人を変えるのは、叱責や怒りではなく、愛情と慈しみだと信じているから。