蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№862 年明け、そして師匠

1ヶ月もサボっている間に、新しい年になってしまいました。
遅ればせながら、今年もよろしくお願い致します。

 

長らくお世話になってきた恩師が、年末にお倒れになられました。
なので個人的にはまったくめでたくないので、「明けまして云々」という枕詞は可能な限り使用せずに年が改まったご挨拶をしていました。

 

私をよく知る皆様は、この私がどれだけ「先生」という存在を大事にしてきたかをよくわかってくださると思いますが、N夫さんやK藤さんを「さん」付けで呼ぶなどけしからん!という姿勢を断固として貫いてきたことと同じように、今ご療養中であられる恩師を親以上に大事に思いお仕えしてきたという自負のなかで、その大切な方が医療機関のベッドの上においでになるという事実は、新年の何もめでたくなどないと思わせるに十分な理由です。

 

しかし同時に、このことを通じて私は学んだことがあります。
なぜそうまでして、「先生」たる方を崇め奉るようにしてきたのか?ということについてです。

これ、私という人間を私自身が理解するために、非常に重要なポイントでした。


実は私以外の人はみんなこの事に気づいていたフシがある(うんうん、と頷く顔がいくつも目に浮かびます)。でも私を傷つけないためか、もしくは成長というものに対してプロセスが有する価値を大事にしておられる故か、誰も何も言わないでくれた。それをいい事に私もまた、「先生って呼んで何が悪いんじゃい!」と嘯いてきました。

 

ところがどっこい、潮目が変わったのであります。


IHヒーリング合宿のために渡米しようとする前に、敬愛するあの方から言われたのです。「もういい加減おやめ」と。その時初めて自分は素直に「うん、やめよか」と思えたので、それ以来時々うっかり以前の口癖が出てしまうとはいえ、意識的である時には「◯◯さん」と呼ぶように進化・成長を遂げたのであります。ちなみにツッコミが入る前に言い訳しておきますが、K藤ゼミの投稿で「Y平先生」と呼びかけてるのは意識的行為ですからね。

 

ご療養中の恩師は、茶道・箏曲・生花における私の師であり、この文化的な取り組みにどれだけ私が真剣に向き合ってきたかを知っていて下さる方は、師匠がお倒れになられたことと、例の感染症に起因する諸々でお稽古がこれまで通りにできなくなったことで、私がどれほどショックを受けているかをご理解下さると思います。そろそろお稽古再開を、とご相談申し上げ、では年明けからね、楽しみだねとお言葉を頂いたのが、師匠と交わした最後の言葉でした。その翌週に、お倒れになられました。

 

生命の確固たる基盤に対する信頼を持って生きている私ですので、常に奇跡を信じます。肚の座った師匠でした。様々なことでビビる私に、幾度喝を入れて背を押してくださったかわかりません。そんな師匠ですから、また私たちの前に変わらぬお姿を見せて下さるかもしれません。普段、三次元にさほどの執着を持たない私ですが、お師匠様に関してはそういう執着を捨てきれません。

 

「先生」方という存在を大事にすることは、愛してほしいと涙ながらに世界に切望する、私の魂の叫びでした。そのことに私はつい昨日まで思い至らずにいました。全然わかっていなかった私に「先生」方はいろんなことを解りつつ、そっと寄り添ってくださったんだなと思います。

 

愛してないのは自分だったんだよ。自分が自分を、愛するに足る存在だと思えてなかったんだよ。

 

IH合宿と、その後の友人との度重なる交換セッション、またK藤ゼミ、そして体調不良や批判的実在論の学びなどを通じてようやく私は気づいたのです。私は私に愛してほしい。私が自分自身に価値を認めたい。それができないとき私は「なにか」を世界に投影してしまう。苦しくて、悲しいから。そして寂しいから。

 

いろんなことがあって、その体験を消化するのが大変なので、Blogも日記も書けませんと言い訳をしていたのですが、消化するのが大変なのではなく、書くことで認める事になってしまうのが嫌なことが、いっぱい押し寄せてきているということなのかもしれません。

 

いつまでも元気でいて欲しかった。何も変わらないで欲しかった。でもこんな瞬間にまで、大事なことを教えてくださった。このことに気づかずにこの先を生きるのはとてもつらかったと思う。これが師弟愛ってことなのか・・・この先に続く思いはもっとあるのですが、今はとても言葉にしてここに書くことができません。


学んで私の血肉になったあれこれは、決して奪われない。そして私はその学びを通じ、イマココに存在する自分の価値を認めてやりたいと思う。私の先生方は素晴らしい方ばかりで、その素晴らしい方々に師事し、大事に導かれてきた私もまた素晴らしい。そう確信を持って言い切れたとき世界がこれまでとはまるで違って見えることを、私は驚きの思いで感じているのです。そして私は今も変わらず自分の「先生」方が大好きなのですが、その愛情と自らに向ける愛情が同じ質、同じ量に近付いてきているのを感じます。これが学びの価値であり、救いだと感じています。